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原水爆禁止世界大会・広島大会 基調提案

2018年08月04日

原水爆禁止世界大会・広島大会 基調提案

原水爆禁止世界大会実行委員会
(原水爆禁止日本国民会議)
事務局長 藤本泰成
 1945年8月6日、広島は、いつもと変わらない朝を迎えていました。学生や女性たち、多くの人々が、建物疎開など国の命令による動員によって、市内中心部をめざしていました。8時15分、原子爆弾は、一瞬にしてその日常を破壊しました。強烈な熱線と爆風、そして放射線が人々を襲いました。その日の内に5万3644人が死亡したといわれ、翌日からその年の内に14万人が亡くなりました。被爆した人々は、55万人を超えています。
私たちは、この阿鼻叫喚とも言える地獄を、決して忘れてはなりません。
 昨年7月7日、国連加盟国193カ国中122カ国の賛成をもって、核兵器禁止条約が採択されました。広島の、長崎の被爆者が、思い出したくない、語りたくない記憶を絞り出して、自らの体験を、そして人生を語り、8月6日の地獄を、核兵器の非人道性を、訴え続けてきたことが、「核兵器のいかなる使用も人道の諸原則および公共の良心に反する」とした核兵器禁止条約の採択に結実したものと思います。
しかし、日本政府は、条約に反対し、交渉会議にも参加しませんでした。米国の核抑止力によって自国の安全を保障しようとする日本政府は、条約に強く反対した米国の意向の下に、条約は「核保有国と比較保有国の亀裂を生む」と主張しました。唯一の戦争被爆国を標榜してきた日本政府のこの主張を、いったい誰が理解するというのでしょうか。
 全国110を超える地方議会においても、核兵器禁止要約への署名や批准を求める意見書が可決されています。日本政府が、唯一の戦争被爆国として国際社会で振る舞い、核兵器廃絶を求めるのであれば、条約の署名・批准は必然です。8月6日の地獄の中で、多くの命がどのように失われていったのか、日本のリーダーたらんとするならば、そのことに思いをはせること、そして被爆者の思いに寄り添うことがなくてはならないのだと思います。
 6月12日、歴史上初めて米国と朝鮮民主義人民共和国との首脳会談が開催されました。朝鮮半島の非核化への両国の責務が確認され、新たな歴史が動き出しました。朝鮮半島の非核化への道のりは容易ではないと思いますが、粘り強く平和への話し合いを積み上げることが重要です。
米国の朝鮮政策に迎合し、「制裁の強化」のみ主張してきた日本政府は、米国の豹変の中にあって全く蚊帳の外に置かれています。安倍首相は、自らの議員生活において、朝鮮半島の植民地支配を肯定し、日本軍慰安婦問題を否定してきました。そのような政治的スタンスをもって、拉致問題では、最重要で最優先課題であり拉致被害者の全員の生還を求めるとして、話し合いのきっかけすらつかめないできました。
国内にあっては、朝鮮高校を授業料無償化措置から排除し、6月28日には、朝鮮への修学旅行から帰国した神戸朝鮮高級学校の生徒たちのお土産などを、関西国際空港の税関において没収するとう事件も起こしています。安倍政権が持つ、東アジア諸国に対する差別性は明らかです。自民党議員の中には、税関の行為を擁護する発言を行っている者もいます。
加えて、これまで朝鮮の核兵器の脅威をことさらに喧伝し、核実験やミサイル発射を非難してきたにもかかわらず、自ら核兵器禁止条約に後ろ向きの姿勢を示し、高速増殖炉実験炉もんじゅの廃炉で破綻が明らかになったプルトニウム利用政策を継続し、潜在的核保有の立場を堅持しようとしています。他国の核保有を否定し非難しながら、自国は核保有国としての機能を維持しようとする矛盾は、戦争被爆国の市民として許しがたいものがあります。
私たちは、早急に朝鮮との国交正常化へ向けての日朝の話し合いを開始すべきであると考えます。そのためには、拉致問題に拘泥することなく話し合いを優先し、国交正常化後の議論に委ねるべきであり、朝鮮や韓国からも非難されるような在日同胞への差別的扱いを改めるべきです。加えて、東北アジアの非核地帯構築のために、潜在的核保有として他国から非難されるプルトニウム利用計画を廃棄すべきです。
 今年3月に発表された、米トランプ政権による「核態勢の見直し(NPR)」は、「小型核兵器の開発や水上艦搭載の核巡航ミサイルの新たな開発」などを明記し、通常兵器による攻撃に対しても核使用を想定するなど、「核なき世界」をめざしたオバマ政権から、大きく後退するものとなっています。朝鮮に核兵器廃絶を迫る米国とその核戦力強化のNPRを積極的に評価する日本が、朝鮮半島の非核化に物言うことができるのでしょうか。世界最大の核保有国である米国とその抑止力の中にいる日本は、そのことを真剣に考えるべきだと考えます。
 去る6月14日、東京電力の小早川社長は、内堀福島県知事と面会し、福島県楢葉町と富岡町にまたがる福島第二原発について、「廃炉に向けて検討に入りたい」と述べました。
正式な決定は今後になると思いますが、東電幹部は後戻りすることはないと述べています。第二原発4基の廃炉決定は、既に廃炉が決定している福島第一原発6基と合わせ、事故以来福島県民が熱望してきた「原発のない福島」が実現したこととなります。遅きに失したとの声もありますが、「脱原発」を求めて来た私たちは、「全基廃炉」の決断を歓迎したいと思います。
福第一島原発では、未だに1日140~150トンもの放射能汚染水が貯まり続け、溶融した燃料の存在も不確定なままです。格納容器内では毎時80Svとも言われる高線量の放射能が事故の収束を阻んでいます。また、事故収束と廃炉の完了を2041年から2051年と試算し、かかる費用の見積もりは、現時点において約22兆円としていますが、今後の状況いかんでは更なる長期化と費用増大も考えられます。
 東日本大震災、福島原発事故から1年を経過した2012年3月11日、福島県郡山市「開成山野球場」で、初めての「原発いらない!3.11福島県民大集会」が開かれました。県内・県外から1万6000人が参加し、「安心して暮らせる福島をとりもどそう」と「脱原発」への誓いを新たにしました。
あの日、さようなら原発1000万人アクションの呼びかけ人、ノーベル賞作家の大江健三郎さんは、放射線量の高かったグラウンドの、中央に設けられたステージに立って、「原発事故を絶対に起こさない方法は、原発をなくすこと。私は、政府が原発の全廃を宣言し、子ども達が歓喜する姿を想像している。それは必ず出来る」と訴えました。
あれから7回の集会を重ねて、まさに今、福島では原発が全廃されました。大江さんが想像したように、福島は、子どもたちの歓喜の声で包まれているのでしょうか。
そうではありません!
 福島県では、原発事故に由来する様々な課題が、県民の生活を覆っています。私は思い起こします。事故直後の「今後の原発政策の行方は、いかに早期に避難者が福島に戻れるかにかかっている」と言う言葉を。誰がとも、どこでとも、もう答えられませんが、はっきりと記憶に残っているこの言葉は、今、政府が、事故前の規準の20倍の年間被爆限度20mSvを強要し、全ての補償を止めてしまうことで帰還を強要する政策と、明確に結びつきます。
 事故に伴う避難指示が、帰還困難区域を除いて全域で解除されて1年が過ぎました。しかし、故郷に帰還した住民の割合は、全体で15%と少しに止まっています。対象人口が最多の浪江町では3%超、富岡町も5%未満です。
働く場所もない、生活に必要なインフラの整備もままならない、除染したとはいっても住宅の周辺だけ、野原や山々は手つかずのまま放置されています。子どもたちの健康への影響はないのだろうか。20mSv/yは本当に安全なのか、安全ならなぜ以前は1mSv/yだったのか。納得いく説明はありません。若い世代ほど、故郷に帰還できない状況があります。
 全国で、原発事故被災者が賠償を求める裁判を行っています。東電は「裁判外紛争解決手続(ADR)」の和解案は尊重すると表明していましたが、浪江町や飯舘村の住民が集団で起こした訴えに対する和解案には、拒否解答を繰り返し、結局手続が打ち切られています。損害賠償に対する国や東電の後ろ向きの姿勢が、全国各地の裁判につながっています。そして、そこでは広島・長崎の被爆者が苦しんできたように、事故と被爆と、損害の因果関係の立証を、被災者に求められることとなります。
原発の安全・安心を繰り返し強調してきた国や東電に対して、なぜ、何の責任もない被災者の側が苦しまなくてはならないのでしょうか。
 2006年12月22日の安倍晋三首相の国会答弁があります。「(日本の原発で全電源喪失という)事態が発生するとは考えられない」「(原発が爆発したりメルトダウンする深刻事故は想定していない。)原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期しているところである」
 考えられないことが起きるのが原発なのです。皆さんそう思いませんか。
 安倍首相は、福島原発事故以降は、事故の反省から「日本の原発は世界一安全」として、世界への原発セールスを始めましたが、全く成果を上げていません。ウェスティングハウスを買収した東芝、旧アレバと合弁企業を興し新設計の原発「アトメア1」を開発した三菱、イギリスの原発メーカー「ホライズン・ニュークリア・パワー」を買収した日立、世界が原発から撤退しようとする中、日本を代表する企業は、原発建設のコストの上昇に直面し、きわめて困難な状況に陥っています。

 原発の時代は、その危険性故に、終わりを告げようとしています。

さる7月4日、名古屋高裁金沢支部、内藤正之裁判長は、大飯原発の運転差し止めを命じた2014年年5月の福井地裁判決を取り消し、「大飯原発の危険性は社会通念上無視できる程度にまで管理・統制されている」として、住民側逆転敗訴の判決を言い渡しました。私は納得できないので「社会通念」と言う言葉を広辞苑で調べました。広辞苑には「社会一般で受け容れられている常識または見解。良識。」と記載されています。この裁判長の考える「社会通念」には、私たちの常識や良識は入っていないのでしょうか。
日本の市民社会の7割以上が「脱原発を」支持しています。判決のいう管理・統制の基盤となっている「新規制基準」に関しては、その適合を審査する原子力規制庁自身が「新規制基準をクリアしても原発が絶対安全とは言えない」と繰り返し述べてきました。いったい何を根拠に、内藤裁判長は、過酷事故を起こした原発を「社会通念上無視できる程度にまで管理・統制されている」と言いきることができるのでしょうか。
この判決は、私は「犯罪」だと思います。人間の命の問題を、ここまで浅薄に切り捨てることが、どうしてできるのでしょうか。

 原水禁運動は、「核と人類は共存できない」として、全ての国の核、そして核の平和利用も否定し、反対してきました。私たちの運動が正しかったことを、この時代が証明しています。
 「人間は生きねばならない」という、故森滝市郎原水禁議長の言葉は、人間の命の尊厳の根幹を捉えています。核兵器に、原発に、私たちが反対してきた「哲学」がそこにあります。私たちは、この混迷する社会にあって、「いのち」から引き出される「哲学」を、しっかりと捉えなくてはなりません。
 正しい道を、胸を張って進もうではありませんか。核兵器廃絶と脱原発社会をめざして、核も戦争もない平和な21世紀を!、胸を張って進もうではありませんか。
 ご静聴、ありがとうございました。

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