東日本大震災 - 原水禁

「なくそう原発3・11高知集会」に1100名が集まる(高知県平和運動センター)

2012年03月11日

※「高知県平和運動センター情報」から

 集会当日は、県平和運動センターなど関係者と県職労数名は、午前11時に会場の準備のため丸の内緑地公園に集合し、舞台の組み立てや横断幕を設営、また、県平和運動センターは、日教組高知に机を借りて、会場入口で、「全国1000万人署名」を呼びかけました。高知県でさまざまな集会では、ここ数年参加者は多くても150名~200名までであり、集会規模1000名を目標に取組んだものの実行委員会として不安は拭えません。しかし、集会開会の午後2時、集会参加者が続々と詰め掛けます。
 集会では、司会にグリーン市民ネットワーク(市民団体)代表の一人である下京さんと県平和運動センター山崎議長の二名で進めました。

それぞれの立場からの報告と提起
横浜から自主避難の島津佐知子さん
 「夫と5歳の息子と3歳の娘と一緒に自主避難をしてきました。時々なんで高知にいるんだろうとか、これが長い夢だったらいいのにな~と思うことがあります」震災翌日に、最低限のものを車に積み込み横浜を離れ約一ヶ月保に駆けずり回りました。さらにはガソリンも不足し一時間も並ばなければいけない状態、メルトダウンなど聞きなれない言葉が飛び交い不安を抱えた母親と子供で新幹線は満席だったそうです。
 一旦は横浜に帰宅し、これからどうしたらいいか家族で毎日話し合いをした。保育園はお友達に理由を話さないまま、そっと退園をしました。いったいここは何ミリシーベルトあるのか真実が判らず目に見えない放射能に怯えました。
 子供たちは外で遊びたい年頃なのに、外遊びを制限し、マスクをしなければとか、とにかく雨に濡れてはいけないとか、水溜りに近づかないでとか、私も夫もノイローゼ気味でした。子供がたんぽぽを摘もうとする手を止める自分が嫌でした。今まで築いてきたもの、夫の仕事も残していかなければいけない。最終的に引越しを決めた理由は、まだ、原発が収束せず今後まだ悪化の恐れがあるということ横浜では西の食材が手に入らないということ何より子供たちにほんの少しでも被爆させたくないという思いがあったからです。
 一番辛かったのは、今まで仲の良かった友達から「自分だけそうやって非難するからパニックが起こるんだよ」と責められたことです。
 なんで横浜からと思われると思いますが、自宅付近ではストロンチュームが検出され、秋になってやっと通う保育園が除染されました。他の人にどう思われようと親戚や友人などと疎遠になったとしても子供たちを守りたかったからです。こちらの来て本当に良かったと思うことは、子供たちを外で思いっきり遊ばせることがでたことです。雨の中走り回ったり、豊かな自然の中で海に入ったり川に入ったりして夏を満喫できたことです。それと裏腹に自分の判断は正しかったのか、当時先の見えない状態が不安でした。離れた家族のこともしんぱいでした。そんな時、疎開ママの会に誘っていただき同じ心境のママ達と出合った事で前向きになりました。現在、虹色くじらの会は52名が活動をしています。10月から外部被爆より内部被爆に意識が変わっていきました。
 内部被爆は94パーセントが食べ物から体内に取り込まれます。子供たちは新陳代謝が活発なので大人の5倍も被爆するといわれています。国の定める暫定基準値は国際的に見てもあまりにも緩く子供たちにとって安全といえません。汚染された食材は西日本だけでなく全国に流出しています。そこで、毎日食べる学校給食をより安全・安心なものにしてもらうため香美市長に要望書を提出しました。先月29日におこなわれた県議会では坂本茂雄議員が給食問題について問題提起してくれました。それに対し、教育長からは高知県は日本一の地産地消を目指します。24年度は県内で2ヶ所、週に一回放射線量を測定を行うという心強いお言葉をいただきました。この問題はすでに東北関東だけでなく全国に広がっています。
 札幌市や福岡市では去年12月から測定し、ホームページでは結果を公開しています。香美市からの返答はまだ頂いていませんが、罪のない子供たちも未来を社会全体で守ってほしいと切に願います。何十年もかかって統計的に受傷されたときには、もう遅いのです。レベル7という世界最大の原発事故が起こり私たちに何が出来るのか、もう二度と同じ涙を流さないためにみなさんと一緒に考えたいと思います。
 最後になりますが、私の実家は千葉県我孫子市という場所で、茨城県との県境いです。庭の土壌のセシウムは私の想像を超えたものでした。信じたくないのですが確実にホットスポットです。チェルノブイリにあてはめると計画的管理区域と同じレベルで18歳以下は立ち入り禁止区域になります。飲食も禁止です。それなのに、日本では、まだ400万人もの人が普通に暮らしています。私の友人や家族も大勢います。この先どうなってしまうのでしょうか。これからは短期間でも高知に非難できるようにシェアハウスの体制を整え不安を抱えた家族を受け入れたいと思います。私にできる限りのことをやりたいと思います。ありがとうございました。

伊方原発差止め請求訴訟団
谷脇和仁弁護士からの提起
 第一次原告300名の訴訟は、昨年12月8日の提訴の後も、「原告の追加募集を」との声に応えるべく協議第2次提訴は、12月8日に提訴したものと併合され、より大きな訴訟となる見通しのもと、新たに200名を超える原告を確保し、すでに提訴した原告300名と合わせて500名の原告をめざすものです。私達は、募集期間を1月16日から3月21日まで都市、原告の「追加募集」と位置づけて取り組んでいます。第二次原告募集と「止める会」への参加を提起しました。

「脱原発四万十行動」の山本裕子さんの報告
 昨年の福島原発事故後、早速5月の第二土曜日に脱原発市民デモをはじめました。何と50人もの人が集まってくれて、四万十市始まって以来のことだと言われ、つい、調子に乗って毎月やることになりました。6月・7月は雨に降られ半分になり、8月・9月は猛暑のため、またその半分になり、10月にはとうとう7人までに減り、とてもくどくを噛締めたデモでした。
 ここで凹まないのが高知の西の端に住む私たちの、良~とこです。落ち込んでも立ち直りが早い。11月・12月にはどこからか、また人が集まり、乳母車や車椅子もまた戻ってきてくれ、元気な子供のシュプレヒコールに癒されました。昨年5月から12月まで色んな人達が入れ替わり立ち代り参加してくれましたが、そんなデモの中で東北や関東からの避難母子を四万十市で支援している「なごみネットワーク」とも繋がることができ、以後協力し合ってます。
 ことし、1月には映画チェルノブイリハートと講演の集いを「なごみネット」と「四万十行動」で共催し実現できました。350名あまりの観客を集め、遠くは愛媛県からも、また高知市からもきていただき有難うございました。たくさんの方からの協力、おかげで今日のバスも四万十市から出すことができました。有難うございます。そして2月、今年は大変寒くて、しばしの冬眠をきめ込みました。それでも1月の集いの成功で、またまた調子に乗ってしまって冬眠中にサロン日曜日を立ち上げることにしました。
 サロン金曜日ではありません。サロン日曜日です。金曜ではありません。・会場から笑い日曜日の午後、お茶とおしゃべりの会です。原発、放射能、に限らず孤立した人達がみんな繋がれるような地道な活動にしたいと思っています。サロン日曜日は開かれた場所です。どなたでも、もし第4日曜日、四万十市を訪れることがあれば一杯のお茶とおしゃべりを楽しみにお立ち寄りください。そしていよいよ今日、私たちは冬眠から目覚めました、こうして高知市で皆さんとのつながりを実感でき勇気百倍です。
 先月グリーンピースが伊方の原発から200個の風船を飛ばしました。なんと四万十市には3時間後には確認されているのです。風向き次第では九州や本州でも他人事ではありません。とにかく津波、津波と宣伝されていますが、伊方原発は中央構造腺上にあり地面が動けば、津波を待つまでもありません。先日、新しい燃料棒が3号機に搬入されました。あくまでも再稼動あり気です。しかし、私たちは再稼動を許さず廃炉を求めます。

元東京電力技術者の木村利雄さんの報告
 原発の安全性が十分でないことを指摘すると、原子力計画部でやっていた上司が「やあ、その通りだよ、木村、お前は鋭いな~と、だけれども安全審査をやっている裏方の中では津波を想定事故、シビア アクシデントに盛り込むのはタブーなんだ」と。何故ならばタービン建屋地下一階に非常用電源を置いているということ、それさえが、もう原発を作り変える、しかも安全審査を最初からやりなおす、安全指針も書き直す、非常な労力とお金を要することからタブーなんだと。
 そこまでは言及しなかったけど、彼のタブーだという言葉の裏には、それがあった僕たちはサラリーマンなので巨大な組織の中で動いている蟻んこと一緒なんで何か言っても経営者は動かない。ということで僕の言ったことは何処へも伝わらなかったのですが、いまとなって見ると、僕が瞬間的に思ったことが正しかったんだなと思うし、所詮東京電力世界の科学技術の推移を集めた発電所ってもんはそんなもんなんだと、僕はそのとき非常にガッカリしました。
 僕自身は電気エネルギーという社会の根幹のエネルギーを作っているという一員としての誇りもありましたし、そのために原発を安全に動かすために鋭意努力してきた人間として、まあもう大したことないなって思いましたね。それともう一つ僕はずっと燃料に携わってきたもんで、日々刻々とできる高レベル廃棄物の処分方法が、会社入って17年たっても、いまも、まったく決まってない。この葛藤を担ぐのに嫌気がさして辞めました。
 だけども誰かを責めることばっかりでもしょうがないんで、じゃあ僕たち今から何をやろうかと思ったとき、自然エネルギーをどんどん活用していこうと、でも、巨大な風車を作るのは僕はちょっと考え物だな、人に優しい環境にやさしい地域に合ったものをみんなで見つけていく。
 もう一つ、電気ポットを一世帯が使っていて700Wだと何キロワットになるか計算したら700万キロワット。一時間使ったとして、そうすると110万キロワットの原発が6基いらなくなってしまいます。すごいことじゃないですか。自家発電しなくても明日から一日に使う電気の三分の一を減らす、脱原発、三分の一の脱電力、それが明日から僕たちができること、それを伝えに土佐清水から今日ここに来ました。みんなができることは色々あると思うけれども、一つ一つそれを整理しながら知性を高め子供たちを守るという命題の元しっかりと二本の足で立ってこれからも歩いていきたいなと思いますので、みなさん頑張りましょう。有難うございます

 4名の報告と提起が終ったが、タイムキーパー(城下さん)の敏腕で震災が起きた午後2時46分黙祷に時間を余したため、高知県平和委員会の和田さんがパレードの指揮説明をおこない、閉会とまとめのあいさつを高知県平和運動センターの山崎秀一議長がおこないました。山崎議長は「原発の三つの神話は崩壊した、その一つは安全神話、二つ目は、電力が不足する。三つ目は、原発の電気は安いことを取り上げ、伊方原発の再稼動を許さず、廃炉に向けがんばろう」と締めくくり、山崎議長の黙祷の合図で、2時46分参加者一同で被災地でお亡くなりになった方達に一分間の黙祷を捧げて、パレードに出発した。
 パレードの先頭には鳴物や替え歌、さまざまな衣装やプラカード、シュプレヒコールなど、にぎやかな隊列と静かに整然とパレードなどさまざまです。

【発言録】原発いらない!3・11福島県民大集会

2012年03月11日

原発いらない!3・11福島県民大集会
           2012.3.11 福島県郡山市開成山野球場

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●この3・11は決して忘れてはならない特別な日
竹中 柳一さん(大会実行委員長)
 原発いらない!3・11福島県民大集会に県内各地から、そして全国から私たちの思いを受け止めようと駆けつけて下さいました皆さん、本当にありがとうございます。私たちにとって、この3・11は決して忘れてはならない特別な日になっています。地震・津波、多くの人々が命と財産を失いました。その事に加え私達は、原子力発電所の事故とその結果拡散した放射性物質により、今なお不安と苦しみの中で生活しています。私達は多くの物を失いつつあります。豊かな恵みをもたらしてくれた水田や畑、そして自然の全てが放射性物質によって汚染されました。多くの県民が自然豊かな故郷から追われました。そして多くの子どもたちが、赤ん坊、幼児を含め県外に転校、避難しました。数々の災害や戦争、多くの困難を克服し、現在の豊かな暮らしを、豊かな暮らしの基礎を築いてくれた先人たちの尊い努力が、放射性物質により失われようとしています。そして同時に、福島県の将来を担う子どもたちや若い世代を失おうとしています。3月11日が、再び巡ってきました。この日だからこそ、現在の私たちの苦しい状況をお互いの共有しながら今後について思いと決意を新たにすべきだと考え、この集会を企画しました。この集会が福島とそして日本の新しい変革のスタートとなる事を願い開会を宣言いたします。

●「原発いらない」の声は痛恨の思いを込めた県民の叫び
清水 修二さん(大会呼びかけ人代表)
 3月11日が再び巡ってきました。一年前のあの頃と同じように、今日は寒い日となりました。あの日いつも通りの平穏無事な日常が一瞬にして一変し福島は、そして私たちは最早それ以前と同じように生きることはできなくなりました。津波で肉親を失い、家を失い今なお古里に戻ることも身内の遺体を捜すことも叶わぬ人々がいます。
 地震や津波を免れたにも関わらず、放射能のため古里の山野を後にして避難を余儀なくされている人がいます。避難の中で尊い命を落としたお年寄りもたくさんいます。母親は子どもたちの将来に、言いようのない不安を抱いています。
 家族や地域がバラバラになり、人々の絆が至るところで断ち切られる事態が生じています。農家は生産の喜びを奪われています。地方自治体は存亡の危機に瀕しています。一見すると、町は平穏無事でいつもの風景が目に映ります。しかし、よく見ると子どもの姿が見えません。福島県の人口は一気にそして現在もなお、ジワジワと減り続けています。復興のかけ声は高く上がっていますが、足下の除染さえ遅々として進みません。避難生活が長引くに従って古里に戻る気力は萎えていきます。これまで原発の危険性に警鐘を鳴らしてきた人ですら、こんな悪夢のような事態の出現をどれだけリアルに想像し得たでしょうか。
 3月11日、この日は亡くなった多くの人々の霊を慰める鎮魂の日です。しかし、福島では災害は今も進行中です。目に見えない放射能と言う敵に包囲されて私たちは今だ、魂を静めるゆとりを持つことができません。福島で今何が起こっているか、本当のことは、未だ多くの日本国民に理解されていないと思います。
 放射能でバタバタ人が死んでいるわけではないし、人心の分断と言った社会現象は、放射能と同じように目に見えないからです。原発という物がまかり間違えば、国の破滅にすら繋がりかねない巨大な危険性をはらむものであることを、今度の事故は私たちにハッキリと示しました。世界有数の災害国である日本が、50基を超える原発を運転してきたことがどんなに無謀で異常なことであったか、福島の私たちは身をもって知らされました。
 福島県は原発に依存しない社会を作ることを宣言しました。けれども、その声はまだまだ日本の隅々にまで届いてはいません。それどころか、電力不足や地域経済の打撃を理由にした再稼働の動きが、急速に高まって行く気配があります。今日、ここ郡山だけでなく県内各地で様々な集会が行われています。場所は離れていても県民の気持ちは一つです。「原発いらない」の声は痛恨の思いを込めた福島県民の叫びです。この叫び声を全国の心ある人々の耳に届けるのは福島県民の使命であり義務であると思います。
 今日のこの集会が私たちの、そうした決意を固める意義深い集会となることを願っています。本日は本当に多数の皆さんにおいでいただきました。全国からたくさんの方が参加しておられます。本当にありがとうございました。心から感謝致します。共に前進しましょう。

●子どもたちの大きい歓声が響くだろうということを、私は想像します
大江 健三郎さん(「さようなら原発1000万人アクション」呼びかけ人)
 今日の集会は、大きい困難を乗り越えていられる、乗り越えられない悲しみを見舞われていられる方が集まられた集会であります。その福島の人たちが中心になられた会だと言うのを承知しています。しかし今、清水先生がお話になったことを聞いておりまして、本当にこの集会の意味と強い感情、深い倫理観、そういうものがしみじみ伝わって参りまして、ここに参加させていただいてありがたいと存じております。私は東京から参加させていただいた、大江健三郎であります。私は、7分間お話しする時間をいただいていますが、もうマイクの都合で3分使ってしまいました。できるだけ長くならないように致します。
 原子力発電所をどうしなければならないかと言うことについて、私の考えを申しますが、元よりこの1年前の今日、津波で亡くなられた方たちへの思いと言うものを入れながら、その2つのことが繋がっていると思いつつ、お話しすると言うことを受け止め願えればと思います。この1年間、信頼する学者たちの分析と批判とを注意深く読んで参りました。そして原子力発電は人類が初めてやっていることだが、その理論こそ明確でも技術的に完全にコントロールされてはいなかった。特に地震への配慮は、この活断層だらけの国で学者たちの警鐘がよく生かされていなかったと言うことを学びました。非常に恐ろしい思いで再認識しました。
 3・11の後も、その原発の再稼働を考える人たちがずっといます。そして今、現に彼らの大きい運動が始まっています。その中でもうすでに再稼働しても良いという許可を出した学者たちの集まりがあります。どうもその集まりの中の学者たちが、日本にあるいくつもの原発の地盤が、実は活断層の上にかかっていることを報告して、警告しているにも関わらず、それを無視されていたということを告発しておられます。ところが、その責任ある学者が、今も原発の再稼働を決める中におられるということを、極めてこう言う知識をみんなのものにしなければならない、反対しなければならない。そして、改めて大事故が起これば今現在を生きる私らのみならず、未来社会に向けて生きる人間皆に、子どもたちが中心です、大きく長い期間の影響のあることを思い知りました。
 正直に言えば、私は力を落としておりました。でもドイツで行われた原発を全廃しようと言う委員会の答申があった。それをドイツの国会が承認した。そしてドイツ全体の動きが原発廃止に至ったということを、メルケル首相について私どもは知ったわけでありますが、この原発をどうするかと言うことを、最初に議論した集まりの名前は倫理委員会、すなわち、まず政治的な理由、或いは経済的理由よりも優先して、倫理的な理由ということを考える人たちがいる。その人たちが作った動きが、今度のドイツの原発廃止の結果になったと言うことであります。
 私は、日本人も倫理と言うことを考える人間だった。モラルとか考えることをしてきた。しかしどういうわけか、あのバブルの頃から倫理的という言葉をあまり使わなくなった。バブルで騒いでいる人に、それは倫理的でないんじゃないか、というようなことはなかった。すなわち、私は倫理的な責任を取るということが、人間のいちばん根本的なことでなければならないと考えています。そして、倫理的な責任ということは、この世界で人が人間的に生きることを妨げるような行動を取ってはならないということです。
 人類は過ちを犯しましたが、本当に倫理的でないことが行われてきたんですが、しかし大筋ではこの責任を取って生き続けてきた。それが、人類が「生き続けたきた」ということだと思います。しかし、あと1度2度、原発で大事故が起きれば、私らは将来の人間に向けて彼らが人間らしく生活していく場所を取っていくという、すなわち倫理的な責任において、その責任が取れないということであります。
 そして、私どもは将来の人間について考えますけど、今、現に生きている私らの、自分自身についても不安を感じています。それが私たちから、今、現にいる場所ということではないでしょうか。私が力を落としたと、先ほど言いましたのは本当であります。しかし、その後は立ち直ってきているように思います。現に私は、このように多くの人たちの前で、原稿を読んだりする勇気があまりない人間です。ところが今、平気で市民の集会とデモに加わって、私は力を与えられてきました。そして、私たちに求められているものは何か。私たちが必要とされているものは何か、というと原発の事故を絶対に無くすることです。ところが、絶対にやると言うことができるのか、という問いかけがあるかも知れません。それはできます。この国の原発を全て廃止すれば。
 私たちが、或いは私たちの子どもが、そのまた子どもたちが、原発の事故により大きい放射能の害を被るというようなことは絶対にないわけです。それは現にドイツで行われています。イタリアでもやろうとしています。それを私たちがやらなければならないと思います。原発からの電気が無くなれば、私たちの生活はどうなるかとすでに政府が、産業界が、またマスコミの一部が脅迫しています。しかし私らは、政治的な責任よりも経済的な責任よりも、国防的な責任すらよりも人間が将来、人間らしく生きていけるかどうかということの、すなわち倫理的責任を重んじると言い返すことができます。市民生活に負担、そういうことを民主主義的に担えばいいのであります。
 民主主義と更に言いますのは、日本の電力会社が全く民主主義的ではないからであります。そして今こそ、私たちが起きている危機、民主主義において一人一人がどのように抵抗するか、どのような新しい電気の道を開くか、或いは電気の運搬について配分について。現に、ここにいらっしゃる方たちが昨年の夏、自分たちで節電して、あの電力の危機と言われたものを乗り切った人たちじゃありませんか。それを今年も来年も続けていけばいい、ということであろうと思います。
 さて、もう時間がなくなりましたので。私どもが東京で大きい集会(2011年9月19日の明治公園集会)を開催しました。そこで、ジョン・レノンのイマジンという「想像しましょう」という詩のことを言われました。私は小説家で「想像力」ということを、いつも言っていまして、「想像力バカ」とも言われている人間でありますので、この言葉が身に染みるんですが、一つ想像することがあるんです。それは近い将来のある日、ある朝、この国の全ての小学校、全ての中学校、全ての高校で校庭に生徒たちが集まる。そして、先生が或いは生徒代表がこういうことを告げることになる。「皆さん、この国は原発を全廃する事を昨日決意しました」。それが私たちの将来です。私たちの未来に原発事故の不安はもうありません。そして子どもたちの大きい歓声が上がるということを、その歓声が響くだろうということを、私は想像します。それを実現させましょう。

●福島が好きだという気持ちは変わらない
管野 智子さん(県外に子どもと避難中)
 私は、小学1年と3年の子どもを持つ母親です。3・11原発事故を境に、目に見えない放射能が降り注ぎ、放射線量の高い地域から遠ざかっても、自身やわが子がすでに被曝し、いずれ影響が体に現れるのではないか、という不安がつきまとっていました。毎日毎日、否応なく迫られる決断、「逃げる、逃げない」「食べる、食べない」「洗濯物を外に干す、干さない」「子どもにマスクをさせる、させない」など様々な苦渋の選択をしなければなりませんでした。
 子どもたちは前のように自由に外遊びができません。学校の校庭で運動もできない、運動会もプールも中止。子どものことを日に日に考えるようになってきました。そこで私達家族は、10年後に後悔したくないという思いから、子どもの夏休みを機に、福島市から山形県米沢市に同居しているお姑さんと子ども2人と私の4人で自主避難しました。
 現在は借り上げ住宅に住んでいますが、避難生活は経済的な負担があり、二重生活や住宅ローンも重くのしかかります。仕事の都合で家計を支える父親は、地元福島市を離れられず、週末だけ子どもに会いに来ています。そして私は、精神障害者の施設で色々な支援に携わっている仕事をしていますので、米沢市から福島まで毎日通勤しています。子どもたちは、区域外通学ということで、2学期から米沢市の小学校に転校しました。福島から来たこと、運動着の色が違うことで、いじめに遭うのではないかと心配しましたが、1学期からすでに福島からの転校生がいること、いじめの事実もなく、2学期からの転校生が10数名おりました。学校の先生やお友達に暖かく迎え入れられ、お友達もあっという間にできて、遊びに行ったり来たりしています。外で思い切り遊ぶこともできます。
 米沢は雪が多く、スキーの授業も生まれて初めての経験でしたが、「楽しい、滑れるようになった」と嬉しそうに話してくれます。中には学校や環境になじめず、福島に戻られた方もおります。子どもたちは不満も言わず、元気に過ごしていますが、子どもの心の叫びは「原発がなければ福島から米沢に来ることもなかったし、福島の友達と遊べた」「米沢はマスクもいらない、放射能を気にする事なく外で遊べる、でも福島の方が楽しかった」。時折淋しそうな顔をします。私たちは、福島第一原子力発電所の事故がなければ、福島を離れることはありませんでした。子どもを守りたいと米沢に来たこと、それでも福島が好きだということ、その気持ちは変わりません。有難うございました。

●第一次産業を守ることが原発のない持続可能な社会を作ること
菅野 正寿さん(農業・二本松市)
 原発から約50kmの二本松市東和町で、米、トマトなどの専業農家をしています菅野と言います。原発事故から1年、とりわけ自然の循環と生態系を守り健康な作物、健康な家畜を育んできた、何よりも子どもたちの命と健康のために取り組んできた有機農業者への打撃は深刻です。落ち葉は使えるのか。堆肥は使えるのか。米ぬかは、油かすは……。これら様々な資材をこれから検証しなければなりません。改めてこの福島の地域支援の大切さを感じています。
 津波で家も農地も流された農家、自分の畑に行くことができず、避難を余儀なくされている苦渋。そして自ら命を絶った農民。私たちは耕したくても耕せない農民の分までこの苦しみと向き合い、耕して種を蒔き、農の営みを続けてきました。その農民的な技術の結果、放射能物質は予想以上に農産物への移行を低く抑えることができました。新潟大学の野中昌法教授を始め、日本有機農学会の検証により粘土質と腐植の有機的な土壌ほどセシウムが土中に固定化され、作物への移行が低減させることがわかってきました。つまり、有機農法により土作りが再生の光であることが見えてきました。
 幸い福島県は、農業総合センターに有機農業推進室がある全国に誇れる有機農業県です。見えない放射能を測定して見える化させることにより、「ああ、これなら孫に食べさせられる」とどれだけ農民が安心したか。夏の野菜も秋の野菜も殆ど0~30ベクレル以下と、ただ残念なのは福島特産である梅、柿、ゆず、ベリー類は50~100ベクレル以上、キノコ類も菌糸が取り込み易く山の原木があと何年使えないのか、椎茸農家や果樹農家の中には経営転換を迫られる農家、離農する農家も出てきています。1月に農水省が発表した福島県内の玄米調査では、98.4%が50ベクレル以下です。500ベクレル以上出た僅か0.3%の玄米がセンセーショナルに報道されることにより、どれだけ農民を苦しめているか。私たちは夏の藁の問題、花火大会の中止、福島応援セールの中止、ガレキの問題など丸で福島県民が加害者の様な自治体の対応、マスコミの報道に怒りを持っています。マスコミが追及すべきは電力会社であり、原発を国策として推し進めてきた国ではないか。
 私たち人間は、自然の中の一部です。太陽と土の恵みで作物が育つように、自然の摂理に真っ向から対立するのが原発です。農業と原発、人間と原発は共存できません。戦前東北の農民は、農民兵士として戦地で命を落とし、戦後、高度経済成長の下、高速道路に、新幹線に、ビルの工事に、私たちの親父たちは出稼ぎをして労働力を奪われ、過密化した都市に電力を送り、食糧も供給してきました。その東京は持続可能な社会と言えるでしょうか。福島の豊かな里山も綺麗な海も約3,500年続いてきた黄金色の稲作文化も正に林業家、漁業家、農民の血のにじむような営農の脈々と続いてきた結果なのです。つまり、第一次産業を守ることが原発のない持続可能な社会を作ることではないでしょうか。
 私たちの親父やそのまた親父たちが、30年後、50年後のために山に木を植えてきたように、田畑を耕してきたように、私たちもまた次代のために、子どもたちのために、この福島で耕し続けていきたいと思うのです。そして子どもたちの学校給食に、私たちの野菜を届けたい、孫たちに食べさせたい。そのために、しっかり測定して、放射能ゼロを目指して耕していくことが、福島の私たち農民の復興であると思っています。生産者と消費者の分断するのではなく、都市も農村も、ともに力を合わせて農業を守り、再生可能なエネルギーを作り出して、雇用と地場産業を住民主体で作り出していこうではありませんか。原発を推進してきたアメリカの言いなり、大企業中心の日本のあり方を今変えなくていつ変えるんですか。今、転換せずしていつ転換するんですか。がんばろう日本ではなく、変えよう日本、今日をその転換点にしようではありませんか。

●もう一度あのおいしかった福島の魚を全国の皆さんに送り届けたい
佐藤 美絵さん(漁業・相馬市)
 去年の3月11日、東北沿岸は巨大津波を受け、私たちの住む相馬市も甚大な被害を受けました。漁業、農業、観光業、全てを飲み込み、美しかった松川浦の風景が跡形もありません。私は港町で生まれ育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は、年間70億円の水揚げと、沿岸漁業では全国有数の規模を誇っていました。私はその日も明け方5時から市場で水揚げした魚を競りにかけ販売し、午後1時頃に自宅に戻り自営業の魚の加工販売の準備をしていました。そのとき、あの地震が起きたのです。
 長い揺れが収まり、呆然と落ちてきた物を片付けていると、消防車が「津波がくるから避難してください」と海岸沿いを巡回していました。私は本当に津波なんかくるのか、半信半疑で道路から遠くを眺めると、真っ黒い波が動く山のように見えたのです。「だめだ、逃げろ」。息子は子どもを抱きかかえ、私は夫とともにやっと高台へ駆け上がりました。そこから見えた光景は丸で地獄のようでした。それから無我夢中で実家の両親や弟たちを捜したのです。その頃、弟は地震が起きた後、すぐに自分の船を守るために沖に出たのです。沖では仲間たちと励まし合いながら津波が落ち着くのを待ち、やっと帰ってこられたのは、確か3日後でした。
 しかし、両親は逃げ遅れ、家ごと津波にのまれて帰らぬ人となりました。本当に残念でなりません。そして船を津波から守った漁師たちは、9月になれば何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つ一つ揃えがんばってきました。しかし、放射能がそれを許しません。毎週、魚のサンプリングをして「来月は大丈夫だろう。船を出せる」と期待しては、落胆の繰り返しでした。市場や港は変わり果てた姿のままです。元通りになるまでは、まだまだ時間がかかりますが、私たちは1日も早い漁業の復興を望んでいます。
 現在、漁業者は海のガレキ清掃に出ています。しかし、夫たちはもう一度漁師として働きたい、私は市場で夫の獲ってきた魚を売る、活気ある仕事がしたいのです。そしてもう一度あのおいしかった福島の魚を全国の皆さんに送り届けたいのです。

●東京電力と国はきちんと責任を取ってほしい
菅野 哲さん(飯館村からの避難者)
 飯舘村の菅野です。5月から福島に避難し、お世話になっています。飯舘村では高原野菜を作っていました。しかし今回の原発事故で全てを失ってしまいました。野菜を国民の皆さんに届けることができません。飯舘村の農家は殆どが農地も牛も全てを失って、涙を流して廃業しました。もう飯舘村で農業ができないのです。避難していても何もすることがないんです。農家は農業やることが仕事です。どうやって生きろと言うのですか。誰も教えてくれません。
 事故から1年を過ぎますが、飯舘村は去年の3月15日の時点で44.7μsvです。この高い放射線量の中に飯舘村民は放って置かれたんです。その期間被曝させられたんです。誰の責任ですか。更には、放射能まみれの水道水まで飲まされていたのです。加えて学者は、国も行政も安全だと言っていました。どこに安全があるんでしょうか。その物差しがないんです。これをどうしてくれるんですか。答えがほしい。国民に国も学者も政治家全てが正しく教えるべきであり、正しく道を敷くべきであります。
 死の灰を撒き散らして(東京電力は)「無主物」だと言います。何事ですか。火山灰ではないのです。原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。東京電力と国はきちんと責任を取ってください。今、大手ゼネコンが双葉地方、相馬地方に入っています。「除染、除染」と歌の文句のようです。何を言葉並べているのでしょう。
 路頭に迷う住民の私たちの今後の暮らしついては、住民の意向を何一つ汲んでいません。今後の暮らしの希望の持てる施策がないんですよ。こんなことで許せますか。良いのですか。それはないでしょう。被害を受けた私たちは、悲惨な思いで生活をさせられております。まだまだ長生きできたはずの、村の高齢者が次から次へと他界していきます。家に帰れないで避難先で悲しくも旅立ちます。早く、早く、放射能の心配がなくて元のように美しい村になって安心して安全で暮らせることができる、そういう生活の場所と今までのようなコミュニティの形を作った、新しい避難村を私たちに建設してください。
 美しかった飯舘村は放射能まみれです。そこには暮らせません。新しいところを求めなければならないんであります。国にも行政にも子どもの健康と、若者が未来に希望を持って暮らすことの出来る、そういう生活ができること。そのためには、住民の意向を充分に反映した新しい施策を要求します。皆さん、この悲惨な原発事故、この事故を2度と起こしてはなりません。この起きた事故の実態を風化させてはなりません。国民が忘れてはならないはずです。
 福島県の皆さん、全国の皆さん、特に福島県の皆さん県民が一丸となってもっともっと声を大きくして全国に世界に訴えていきましょう。

●私は被災者になっていました
鈴木美穂さん(高校生・富岡町から転校)
 私の地元は、郡山ですがサッカーがしたくて富岡高校に進学しました。寮生活をしながらサッカーに明け暮れ、仲間と切磋琢磨する充実した日々を送っていました。地震が起きたときは、体育の授業中でした。もの凄い揺れであのときは必死で守ってくれた先生がいなければ、私は落下してきたライトの下敷きになっていたと思います。校庭に避難しているとき、まさか津波がきているということ、そして原発が爆発するということは想像も出来ませんでした。私はこの震災が起きるまで原発のことを何も理解していませんでした。
 翌日には、川内村まで避難しました。乗り込んだバスの中には小さな子どもを抱えた女性やお年寄りがいました。自衛隊や消防車が次々とすれ違っていく光景は、現実とは思えませんでした。避難所に着くと小さな黒い薬を配る人たちがいました。それはおそらく「安定ヨウ素剤」だと思います。配る様子がとても慌ただしく焦っているようで、私はやっと事態の深刻さが飲み込めました。
 1号機が爆発し、川内村も危なくなり郡山に避難することになりました。私のことを郡山まで送ってくれた先生は泣いていました。先生には原発で働く知人がいたのです。原発事故を終わらせることができるのは、作業員の方だけだと思います。でもその作業員の方は、私の友人の両親であったり、誰かの大切な人であったりします。こうしている今も、危険な事故現場で働いている人がいます。そのことを考えると私は胸が痛みます。爆発から2ヵ月後、私は転校しました。たくさんの方々が優しく接してくれ、サッカー部にも入部し、すぐに学校にもなじむことが出来ました。でも私は被災者になっていました。
 被災者ということで、様々なイベントにも招待されたりもしましたが、正直、こういう配慮や優しさは、返って自分が被災者であることを突きつけられるようで、それがいちばん辛いものでした。「がんばれ」という言葉も嫌いでした。時が経つにつれ、原発事故の人災とも言える側面が明らかになってきています。原発が無ければ、津波や倒壊の被害に遭っていた人たちを助けに行くことも出来ました。それを思うと怒り、そして悲しみで一杯です。人の命も守れないのに電力とか経済とか言っている場合ではないはずです。
 3月11日の朝、私は寝坊して急いで学校に行ったのを覚えています。天気は晴れていて、またいつものような一日が始まろうとしていました。しかし、その日常に戻ることは出来ません。線量が高い郡山で生活し続けることに、不安を持っていますが、おじいちゃん、おばあちゃんを置いて移住することは出来ません。私は原発について何も知りませんでしたが、今ここに立っています。私たちの未来を一緒に考えていきましょう。

●もう少しの間、寄り添ってください。傷はあまりにも深いのです
橘 柳子さん(浪江町からの避難者)
 浪江町は原発のない町、しかし原発が隣接する町です。私は、先の大戦から引き揚げてきて以来浪江町に在住していました。現在は本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9ヵ所の避難所を転々としました。あの原発事故のときの避難の様子は、100人いれば100人の、1,000人いれば1,000人の苦しみと悲しみの物語があります。語りたくとも語れない、泣きたくても涙が出ない、辛い思いをみんな抱えています。
 津波で多くの方が亡くなった浪江町請戸というところは、原発から直線で6.7kmの距離です。でも事故の避難のために、その捜索も出来ずに消防団を始め、救助の人も町を去らなければならなかったのです。3月11日は津波による高台への避難指示、3月12日は「避難してください」のみの町内放送でした。「なぜ」が無かったのです。従ってほとんどの町民は「2、3日したら帰れるだろう」と思って、着の身着のまま避難しました。そこからそのまま長い避難生活になるとはどれほどの人が考えていたでしょうか。
 もっとも、町長に対しても、国からも東電からも避難指示の連絡はなかったとのことです。町長はテレビでその指示を知ったと言っています。テレビに映ったのを見て初めて知ったということでした。なぜ、浪江にだけ連絡がなかったのでしょうか。原発を作らせなかったからでしょうか。疑問です。そんな中での避難は、また悲劇的です。114号線と言う道路を避難したのですが、そこは放射線が最も高いところばかりでした。朝日新聞「プロメテウスの罠」の通りです。
 津島の避難所には3日間いました。テレビはずっと見ることが出来ました。15日に再度、東和の避難場所の変更。この日の夜まで、携帯電話は一切通じませんでしたから、誰とも連絡の取りようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。12日と14日の太陽の光が、チクチクと肌に刺すようだったのが忘れられません。12日の避難は、私にとって戦争を連想させました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で終結地に向かったあの記憶が蘇りました。原発事故の避難は、徒歩が車になっただけで、延々と続く車の列とその数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして私は怯えました。国策により2度も棄民にされてしまう恐怖です。
 いつのときも、国策で苦しみ悲しむのは罪もない弱い民衆なのです。3・11からこの1年間、双葉郡の人々のみならず、福島県民を苦しめ続けている原発を、深く問い続けなければいけないと思います。脱原発、反原発の運動した人もしなかった人も、関心あった人もなかった人も、原発があった地域もなかった地域にも福島第一原発事故の被害は隈なくありました。そして復興と再生の中で差別と分断を感じるときがあります。それを見逃すことなく、注意していくことが、今後の課題ではないでしょうか。
 福島は、東北はもっと声を出すべきだ、との意見があります。でも、全てに打ちひしがれ喪失感のみが心を打っているのです。声も出ないのです。展望の見えない中で、夢や希望の追及は、困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え脱原発、反原発の追及と実現を課題に生きていくことが唯一の希望かも知れません。先の戦争のとき、子どもたちが大人に「お父さん、お母さんは戦争に反対しなかったの」と問うたように「お父さん、お母さんは原発に反対しなかったの」と言うでしょう。地震国に54基もの原発を作ってしまった日本。そして事故により、日々放射能と向き合わざるを得ない子らの当然の質問だと思います。その子たちの未来の保証のために人類とは共存できない核を使う原発はもうたくさん、いらないとの思いを示すこと。いったん、事故が起きれば原子炉は暴走し続け、その放射能の被害の甚大さは福島原発事故で確認出来たはずです。この苦しみと悲しみを日本に限って言えば、他の県の人々には、特に子どもたちには体験させる必要はありません。
 膨大な金と労力を原発のためだけでなく再生可能エネルギーの開発に援助に向けていくべきです。なぜ今、原発の稼働、このような大変なことに遭遇していても、未だ原発必要だという考えはどこから来るのでしょう。他の発想をすることが出来ないほど、原発との関わりが長く深かったということなのでしょうか。でも立ち止まって考えましょう。地震は止められないけど、原発は人の意思と行動で止められるはずです。私たちは、ただ静かに故郷で過ごしたかっただけです。
 あの事故以来、われわれは何もないのです。長い間、慈しんできた地域の歴史も文化も、それまでのささやかな財産、われわれを守っていた優しい自然も少し不便でも良い。子どもやわれわれが放射能を気にせず生きることの出来る、自然を大事にした社会こそが望まれます。どうぞ全国の皆さん、脱原発、反原発に関心を持ちお心を寄せて下さい。そしてもう少しの間、寄り添ってください。傷はあまりにも深いのです。3・11福島県民大集会の私からの訴えと致します。ありがとうございました。
 

6.24「くり返すな!原発震災 つくろう!脱原発社会」に450人

2011年06月24日

DSC_0358_1.JPG 6月24日18時から、東京都千代田区の日比谷公園野外音楽堂で、「原発も再処理もいらない!NO NUKESくり返すな!原発震災  つくろう!脱原発社会」集会が行われました。主催は、「原発とめよう!東京ネットワーク」と、「再処理止めたい!首都圏市民のつどい」の2つのネットワークです。5月27日にも、同じ場所で平日集会を開催しました。この日は約450人が参加して、発言者の声に耳を傾けました。集会後はデモに出発し、経済産業省別館前~文部科学省前を通って、外務省前で通常のデモを終えて、衆議院議員面会所、参議院議員面会所でそれぞれ請願を行い、旧永田町小学校裏(自民党本部斜め前)で流れ解散となりました。


 

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●生田卍さんの歌でスタート♪

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●富山洋子さん(日本消費者連盟)
 地域の豊かな風土を脅かして、日本列島に54基の原発を建てさせてしまいました。福島第一原子力発電所における、事故後の対応にも腹立たしさが込み上げてまいります。この腹立たしさ、無念さ。今こそ脱原発の政策転換を強く求めていきたいと思います。
 今、私たちの暮らし、社会が資本の論理に絡め取られています。それを打ち返し、私はお天道様と米の飯がついてまわる、誰でもおだやかに暮らす社会の実現を目指していきたいと思います。

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●澤井正子さん(原子力資料情報室)
 政府や東京電力は、被災した人々の補償であるとか、もう事故は終わったかのような印象を与えています。
 福島第一原発の1号機、2号機、3号機のメルトダウンした核燃料がどこにあるのか、そしてどういう状況になっているのか誰もわからない。そんな恐ろしい事態がまだ進行中だということを私たちは忘れてはいけません。やはり、原子力の現状をきちんと把握すれば、行きつくところは一つしかありません。脱原発の道しかないと思います。

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●福島みずほさん(参院議員・社民党党首)
 社民党は、「脱原発アクションプログラム」をつくりました。2020年までに原発をゼロに。2050年までに、自然エネルギー100%という中身です。原発がなくてもやっていける。このことを多くの人にアピールしていきたいと思います。
 経済産業省は、着々と原発を推進しようとしています。総理官邸内の、国家戦略室の中のエネルギーを担当する部門は、原発推進で経産省の別働隊のようなかたちで動いています。
 経産相が、全国で停止している原発の再稼働について力を入れています。経産省が「再稼働行脚の旅」を全国でやるのであれば、私たち、そして社民党は「脱原発・再稼働をさせるな!全国行脚」を一緒にやっていきたいと思います。

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●海渡雄一さん(弁護士)
 今年で弁護士になって30年。そのときからずっと原発裁判を続けてきました。負け続けの人生でしたが、ただ一度、もんじゅの金沢高裁判決のときに一度だけ勝たせてもらいました。
 司法のご都合主義というものが、全国の原発訴訟を担当している裁判長を非常に消極的にしてしまったのではないかと思います。その結果、われわれが2007年の10月26日。浜岡原発の地裁での敗訴判決をもらってしまいました。ここで勝っていれば、全国の地震、津波対策というものを抜本的に強化することができ、今回のような事故を未然に防げたのではないかと本当に苦しい思いがあります。判決をもらった時点で、耐震設計審査指針というものは変わっていました。新しい指針に基づいて、国が耐震バックチェックという作業をしていました。これは未だに続いていて、結論は出ていません。したがって、国は浜岡原発に関して、安全であるとは今も言えていないのです。それにもかかわらず、中部電力側の主張だけを鵜呑みにして、安全であるという判決を下しました。
 脱原発弁護団というものが結成されています。私もその一員になろうと思っているのですが、現在60人くらいの弁護士が参加してくださるということで、すでに全国で原発訴訟が始まっていて、まだ訴訟が起きていない地域も今年の秋にかけて計画中です。弁護士も皆さんと手を携えて、原子力を止めるべくがんばりたいと思います。

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●飯田勝平(かつやす)さん(東京労働安全衛生センター)
 これまで、原発ヒバク労災の問題につきまして、大阪や神奈川の私たちの仲間が一生懸命、ヒバク労働者の労災認定の問題について取り組んできました。
 福島第一原発の事故。その復旧や収束作業の中で、放射線業務に従事する労働者のヒバクの問題が、非常に深刻であるという報道があります。厳しい環境で作業する労働者の健康や安全が本当に守られているのか。こういったことが、非常に大きな問題になっているのではないでしょうか。
 今後、労働安全衛生センターは、私たちの命と健康を守る。そして、ヒバク労働を許さないということで、この問題に取り組んでいきたいと思います。

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●藤本泰成さん(原水爆禁止日本国民会議)
 原水禁は、福島第一原発事故と向き合って、脱原発社会をつくっていこうではないかということで、「さようなら原発9.19全国集会」そして、「さようなら原発1000万人署名」。この二つを中心とした「さようなら原発1000万人アクション」の行動を起こそうということで、今全国で私たちと一緒に活動してくれる仲間の皆さんに提起をさせていただいております。
 この福島原発事故の、まだ収束のプロセスも全く明らかにならない中で、経済産業省、経済産業大臣は、原発の安全性は確認された、日本経済のためにこの原発を再起動しようではないかと発表しました。またも、命より経済優先なのか。心の底から怒りが湧いてきます。
 私たちは人にやさしい、人の命にやさしい脱原発社会をつくるために、この「さようなら原発1000万人アクション」を成功させるために、ここに集う皆さん、全国の皆さんにぜひ、この運動に参加していただきたいということを訴えたいと思います。

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●高木章次さん(プルトニウムなんていらないよ!東京)
 「再生可能エネルギー促進法案」が話題になっています。これは、菅内閣の延命だという声もありますが、そういう問題ではなく、これはどうしてもこの機会に通したい。脱原発社会を実現するためには、どうしてもこれが必要だと思います。(高木さんは司会進行役も務めました)。


 

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【四国ブロックの取り組み】四国電力・各県への申し入れ

2011年06月13日

平和フォーラム四国ブロック・社民党四国ブロック協議会共同で
愛媛県・四国電力へ申し入れ

 四国4県で組織する四国ブロック平和フォーラム(代表 鈴木義博)は6月2日午前、社民党四国ブロック協議会と連名で、伊方原発が設置されている愛媛県に対し、福島第1原発事故で四国の住民に不安が高まっているとして、伊方原発3号機のプルサーマル運転再開中止や自然エネルギー中心のエネルギー政策への転換などの申し入れを行い、労組や社民党から15人が参加しました。
 要請では、近隣県に対し、事故を想定した緊急避難態勢などを盛り込んだ防災計画策定を促すことなどをはじめ、運転開始から30年を経過した老朽原発の廃炉を四国電力に求めることなどの要請書を県側として対応した山口原子力安全対策推進監に提出しました。
 今回の要請に対して山口推進監は、福島の事故検証を踏まえた安全対策を電力側に求める考えを示しながらも一方で、四国管内での電力量に占める原発の割合が4割を超えている現状を踏まえ、「運転停止や廃炉という選択は現実的ではない」との考えを示しました。
 参加者からは、「伊方で福島のような事故が起これば四国全体に放射能の影響が及ぶ」「想定外の事態が起きることを設置県である愛媛県としてもっと重く受け止めるべきである」と県側の姿勢を強く非難しました。
また午後には、高松市の四国電力本店にも同様の申し入れを行い、私たちが懸念を示している活断層での強地震について電力側は、他社よりもかなり厳しく調査し、国の基準をも上回った構造にしている。安全上問題ないと主張しました。また老朽化原発の廃炉やプルサーマル運転の危険性の指摘についても、四国電力としての総電力の4割を占める原発供給量は全国的にみても依存度が極めて高い。原発が稼動できなければ夏場の電力確保は難しく工場の稼働や一般家庭での生活に影響を及ぼし兼ねないとの姿勢を繰り返すにとどまりました。
 事故の発生から3ヶ月になろうとしているにもかかわらず未だ事態の収束のメドも立たない福島原発事故。しかも深刻度を示す国際評価尺度(INES)」では最も深刻な、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故に並ぶ「レベル7」とされた今回の原発事故を四国電力とは全く無関係であるかのような姿勢に終始しました。
 また、原発設置県である愛媛県以外の3県においても同様の要請を6月20日までに各県知事宛に申し入れていくこととしています。

平和フォーラム四国ブロック
事務局長 廣瀬  透


2011年6月2日
 

愛媛県知事
 中村 時広 様

四国ブロック平和フォーラム  
代表 鈴木 義博

社会民主党四国ブロック協議会  
議長 久保耕次郎

愛媛県平和運動センター  
議長 松本 修次

社会民主党愛媛県連合  
代表 村上  要

プルサーマル運転の中止と原子力政策の抜本的見直しに関する申し入れ

 私たちが長年危惧していた原発震災が現実のものとなってしまいました。
 去る3月11日に発生した「東日本大震災」は未曾有の災害をもたらしています。
 国内最大のマグニチュード9.0の大地震、揺れの強さを示す加速度は宮城県栗原市で2933ガルを観測し、阪神大震災の最大818ガルを大きく上回り、宮城県宮古市での津波は38.9メートルの高さまで駆け上がりました。福島第1原発は緊急冷却装置が作動せず、炉心溶融に至る重大事故に発展してしまいました。
 事故の深刻度を示す国際評価尺度は最も深刻な「レベル7」に引き上げられ、大地震から約3ヶ月経った今も放射能汚染は収まらず、多くの住民が避難生活を余儀なくされています。また、土壌・農林水産物の汚染や風評被害・住民や労働者被曝の問題が深刻化しています。
 原子力発電所の事故は極めて重大な人災であり、「冷やす」「閉じ込める」という機能が完全に失われ、多重防護により安全だとしていた原発の『安全神話』が崩壊してしまいました。
 放射能の潜在的危険性、核兵器の製造、放射性廃棄物、住民・労働者被曝、環境汚染などを発生させる原発から脱却し、自然エネルギー・再生可能エネルギーを中心とした小規模・地域分散(地産地消)型のエネルギー政策の実現を早急に図らなければなりません。
 四国唯一の伊方原子力発電所、近く発生すると予測されている東南海・南海地震による被害が懸念され、また、沖合6~7㎞にある世界最大級の中央構造線活断層による地盤崩壊など、住民の不安が高まっています。
活断層の研究が進むにつれ未知の断層の存在が指摘され、今までの耐震基準・安全基準が想定する揺れを超えることはないのか、「想定外」の事故が続く中で大きな懸念材料であります。原子力は永久の電源とはならず、残るのはやっかいな廃棄物、永遠に負の遺産を残してしまうことになってしまいます。
 私たちは原子力中心のエネルギー政策の転換を求め、以下のとおり申し入れます。

1.原発立地県として、今回の原発事故の教訓を踏まえ、原発推進政策を改め、以下の施策を推進すること。

1)伊方原発3号機のプルサーマル運転の再稼働を認めないこと。

2)30年を経過した老朽原発はただちに廃炉にすることを四国電力に求めること。

3)使用済み核燃料の管理・貯蔵の安全性、搬出計画などについて、四国電力に求めること。

4)原発の安全神話が崩壊し、環境汚染、期間の定まらない住民避難が続いている。県として住民のいのちと財産を守るために原発を廃炉にし、原子力中心のエネルギー政策から、太陽光・太陽熱・風力・地熱・バイオマス・小水力などの新エネルギー政策を進めるとともに、エネルギー多消費の暮らしを見直し、省エネやエネルギーの効率化を推進すること。

5)近隣県に対して、原発事故による放射能汚染・風評被害など住民のいのちと暮らしを脅かす原発政策から自然エネルギー中心政策と省エネ対策を進めていくよう要請すること。6)放射性物質の漏れ、拡散状況などに対する管理体制の強化とその数値を常時県民に公表するとともに、原発及び放射性廃棄物の保管の危険性について、住民を対象にした学習機会を設けること。

7)地域住民参加の下に福島原発事故規模の原発事故を想定したものに地域防災計画を見直すこと。

8)原発が稼働している間は、県の防災計画に緊急時の避難体制の整備、受け入れ等の計画を策定するよう自治体に働きかけること。

2.下記の事項について国に申し入れること

1)2020年までに9基、2030年までに最低でも14基の原発新増設に取り組むとしている現行のエネルギー政策は、エネルギー需要の拡大を前提に組み立てられており根本的に見直すこと。原子力からの段階的撤退を実施する基本法を制定すること。

2)原子力発電所の新増設計画を中止し、太陽光・太陽熱・風力・地熱・バイオマス・小水力などの新エネルギー政策を進め、脱原発政策を進めること。エネルギー多消費の暮らしを見直し、省エネやエネルギーの効率化を推進すること。

3)30年を経過した老朽原発はただちに廃炉にすること。

4)国の一般会計から拠出されるエネルギー対策費は、原子力関係でなく新エネルギー技術開発・普及支援・人材の確保などに使用すること。

5)原子力安全・保安院を経済産業省から分離させ、原発に反対・批判意見を持つものも含めた第3者により構成される独立性の高い安全規制機関に改組するとともに、徹底した情報公開を行うこと。

6) 原発のリスクと引き換えの原発立地県交付金制度を廃止すること。

7)原発労働者、電力会社の社員、下請労働者の被曝が深刻化しており、被曝労働者の健康管理及び万が一生じた疾病や障害及び所得保障に、国や企業が全責任を持って対処すること。

8)伊方原子力発電所沖合6~7kmにある世界最大級の中央構造線活断層による強地震、高津波、地盤崩壊などの安全性について根本的に見直し、伊方原発は廃炉を視野に停止させるよう国に求めること。

9)再生可能エネルギーの普及と省エネ政策を進めるために、国の電力保護制度を改革し、発電と送電を分離させること。

10)もんじゅと六ヶ所再処理工場の相次ぐ事故、日本はもとより世界で核燃料サイクルは破綻している。プルトニウム利用政策は無謀であり、放射能汚染、核拡散の大きな問題から核燃料政策を根本的に転換すること。

11)その他

以上


2011年6月14日

香川県知事
  浜 田 恵 造 様

四国ブロック平和フォーラム  
代 表 鈴 木 義 博     

香川県平和労組会議      
議 長 鈴 木 義 博    

社民党香川県連合       
代 表 奥 田  研 二     

プルサーマル運転の中止と原子力政策の抜本的見直しに関する申し入れ

 私たちが長年危惧していた原発震災が現実のものとなってしまいました。
 去る3月11日に発生した「東日本大震災」は未曾有の災害をもたらしています。
 国内最大のマグニチュード9.0の大地震、揺れの強さを示す加速度は宮城県栗原市で2933ガルを観測し、阪神大震災の最大818ガルを大きく上回り、宮城県宮古市での津波は38.9メートルの高さまで駆け上がりました。福島第1原発は緊急冷却装置が作動せず、炉心溶融に至る重大事故に発展してしまいました。
 事故の深刻度を示す国際評価尺度は最も深刻な「レベル7」に引き上げられ、大地震から約3ヶ月経った今も放射能汚染は収まらず、多くの住民が避難生活を余儀なくされています。また、土壌・農林水産物の汚染や風評被害・住民や労働者被曝の問題が深刻化しています。
 原子力発電所の事故は極めて重大な人災であり、「冷やす」「閉じ込める」という機能が完全に失われ、多重防護により安全だとしていた原発の『安全神話』が崩壊してしまいました。
 放射能の潜在的危険性、核兵器の製造、放射性廃棄物、住民・労働者被曝、環境汚染などを発生させる原発から脱却し、自然エネルギー・再生可能エネルギーを中心とした小規模・地域分散(地産地消)型のエネルギー政策の実現を早急に図らなければなりません。
 四国唯一の伊方原子力発電所、近く発生すると予測されている東南海・南海地震による被害が懸念され、また、沖合6~7㎞にある世界最大級の中央構造線活断層による地盤崩壊など、住民の不安が高まっています。
活断層の研究が進むにつれ未知の断層の存在が指摘され、今までの耐震基準・安全基準が想定する揺れを超えることはないのか、「想定外」の事故が続く中で大きな懸念材料であります。原子力は永久の電源とはならず、残るのはやっかいな廃棄物、永遠に負の遺産を残してしまうことになってしまいます。
 私たちは原子力中心のエネルギー政策の転換を求め、以下のとおり申し入れます。

1.南海地震等による多大な被害が想定される伊方原発に隣接する県として、今回の原発事故の教訓を踏まえ、原発推進政策を改め、以下の施策を推進すること。

1)伊方原発3号機のプルサーマル運転の再稼働を認めないよう、愛媛県及び国に働きかけること。

2)30年を経過した老朽原発はただちに廃炉にすることを四電に求めること。

3)使用済み核燃料の管理・貯蔵の安全性、搬出計画などについて、四国電力に求めること。

4)原発の安全神話が崩壊し、環境汚染、期間の定まらない住民避難が続いている。県として住民のいのちと財産を守るために原発を廃炉にし、原子力中心のエネルギー政策から、太陽光・太陽熱・風力・地熱・バイオマス・小水力などの新エネルギー政策を進めるとともに、エネルギー多消費の暮らしを見直し、省エネやエネルギーの効率化を推進すること。

5)住民のいのちと暮らしを脅かす原発政策から自然エネルギー中心政策と省エネ対策を進めること。

6)放射性物質の漏れ、拡散状況などに対する管理体制の強化とその数値を常時県民に公表するとともに、原発及び放射性廃棄物の保管の危険性について、住民を対象にした学習機会を設けること。

7)地域住民参加の下に福島原発事故規模の原発事故を想定したものに地域防災計画を見直すこと。

8)原発が稼働している間は、立地県だけでなく県の防災計画に緊急時の避難体制の整備、受け入れ等の計画を策定するよう自治体に働きかけること。

2.下記の事項について国に申し入れること

1)2020年までに9基、2030年までに最低でも14基の原発新増設に取り組むとしている現行のエネルギー政策は、エネルギー需要の拡大を前提に組み立てられており根本的に見直すこと。原子力からの段階的撤退を実施する基本法を制定すること。

2)原子力発電所の新増設計画を中止し、太陽光・太陽熱・風力・地熱・バイオマス・小水力などの新エネルギー政策を進め、脱原発政策を進めること。エネルギー多消費の暮らしを見直し、省エネやエネルギーの効率化を推進すること。

3)30年を経過した老朽原発はただちに廃炉にすること。

4) 国の一般会計から拠出されるエネルギー対策費は、原子力関係でなく新エネルギー技術開発・普及支援・人材の確保などに使用すること。

5)原子力安全・保安院を経済産業省から分離させ、原発に反対・批判意見を持つものも含めた第3者により構成される独立性の高い安全規制機関に改組するとともに、徹底した情報公開を行うこと。

6)原発のリスクと引き換えに原発立地県交付金制度を廃止すること。

7)原発労働者、電力会社の社員、下請労働者の被曝が深刻化しており、被曝労働者の健康管理及び万が一生じた疾病や障害及び所得保障に、国や企業が全責任を持って対処すること。

8)伊方原子力発電所沖合6~7kmにある世界最大級の中央構造線活断層による強地震、高津波、地盤崩壊などの安全性について根本的に見直し、伊方原発は廃炉を視野に停止させること。

9)再生可能エネルギーの普及と省エネ政策を進めるために、国の電力保護制度を改革し、発電と送電を分離させること。

10)もんじゅと六ヶ所再処理工場の相次ぐ事故、日本はもとより世界で核燃料サイクルは破綻している。プルトニウム利用政策は無謀であり、放射能汚染、核拡散の大きな問題から核燃料政策を根本的に転換すること。

11)その他

以上

【資料】ウラン採掘の段階から世界の先住民族は核被害を受け続けている

2011年06月10日

ウラン採掘の段階から世界の先住民族は核被害を受け続けている

「被爆65周年原水爆禁止世界大会記録集」より抜粋・再編集

●PDFファイルはこちらから

世界のヒバクシャ「ニュークリア・レイシズム」(長崎 第3分科会)
フォトジャーナリスト 豊﨑 博光

【プロフィール】
78年にマーシャル諸島で核実験被害の取材を始めたことをきっかけに、米国、太平洋諸島、オーストラリア、カナダ、旧ソ連、ヨーロッパなどでウラン採掘、核実験、原子力発電所の事故などによる核被害者と非核平和運動などを取材。著書に『核よ驕るなかれ』『アトミック・エイジ』『マーシャル諸島 核の世紀』など。

 世界で2,050回以上行われた核実験は、全て先住民族の土地で行われてきました。いろいろな被害を先住民に押し付けてきたと言えます。広島・長崎を起点とすれば、65年間、核の被害を先住民族に押しつけ、核を持つ国が豊かになり、今や私たちは、原子力発電を地球温暖化に対する切り札として推し進めようとしています。それら全ては、先住民族の住む土地のウラン鉱石を掘り出すところから始まって、それを使う事で回っています。つまり、先住民に被害を与え続けている、私たちは今や加害者の側に立っていると言うことです。

ニュークリア・レイシズム
 1992年にオーストリアのザルツブルクに、世界の先住民族の方たちが集まって世界ウラン公聴会という大きな会議が1週間開かれました。その時に、ウラン採掘、核実験、さらに核廃棄物を捨てるところも先住民の土地が選ばれてきている──そういった差別を受けてきたことにニュークリア・レイシズムという言葉を使いました。字引にもありません、エンバイロメンタル・レイシズム、環境破壊が先住民族に差別的に被害を与えているということを表現した言葉に沿った形で作られた言葉です。
 一番最初は、カナダの北極圏にあるグレート・ベア・レイクで採掘されたウランが広島・長﨑の原爆に中心的に使われました。そこに住んでいたのが、サトー・デネーと呼ばれる人々です。原爆を作る前に、材料を掘り出す段階から被害を受けていました。

ウランの採掘
 現在カナダは世界最大のウラン生産国です。ウランの採掘場はサスカチュワン州というちょうどカナダの真ん中になるあたりです。サスカチュワン州の北の方、もっと北に行くとノースウェスト・テリトリーと言います。
 デネー・インディアン、あるいはイヌイットといった人々の住む地域がありますが、そことの州境にたくさんの湖があるあたりで採掘されています。こういうところのウランが、我々日本の原発を廻しているのです、そこではデネーと呼ばれる人々が被害を受けています。
 アメリカにナバホと呼ばれる先住民族の人々がいます。正式の部族名はディネという、デネーというカナダの部族と兄弟のような関係で似た名前ですが、1910年代にすでにウラン採掘が始まっていました。その時のウランは原発には使われていませんでしたが、採掘にあたったのは地元のナバホ・インディアンです。彼らは放射能、つまりウランがどれほど危険なものかということは一切教わらず、採掘をした人々はほとんど肺ガンなどに罹りました。ウラン鉱脈の中には肺ガンを起こす非常に危険な物が入っているのですが、そういうことを知らずに掘っていたわけです。
 また、ナバホの人々は、レンガと石を積み上げてホーガンという伝統的な家をつくるときに、ウラン鉱山の石を使いました。そこに住んでいる人々は、鉱山の仕事に行って被曝をして、帰ってきて家でも被曝するといった事をくり返しているわけです。
 採掘されたウランは近くにある精錬所で鉱石の中にあるウランを取り出すわけですが、ウラン鉱石に水を加え、硫酸とアンモニアを使って抽出した物がイエロー・ケーキと呼ばれる黄色いきな粉のような精製ウランになります。それを取り出す過程で廃棄物が出ます。精錬されたウランは、今度は濃縮という工程に持って行かれます。そこでもまたたくさん廃棄物が出ます。濃度を4%ぐらいに上げると商業用の原子炉で使えるようになり、より高くすると、原爆の材料になります。高濃縮ウラン90%ぐらいで即、原爆になります。
 アメリカが広島に落とした原爆は、高濃縮ウラン60kgを使って作った物です。濃縮工程で出るたくさんの廃棄物、劣化ウランが主な物ですが、比重が大きいので弾丸や砲弾の頭に使われて、被害を広げています。
 1979年にシャーキロと呼ばれる所にあったダム、日本で言うボタ山のようなところですが、それが大雨で崩れてプエブロ川という周辺の人の飲料水や家畜の飲み水になっている川に流れ込んで大変なことになりました。去年、事故から30年になったのですが、まだ放射能除染されていない状況です。
 ナバホの人々の住んでいる居留地には、あちこちたくさんの所にこういったウランのゴミが捨てられています。ナバホの居留地と言ってもピンとこないかも知れませんが、おそらく西部劇などで、グランドキャニオンやモニュメントバレーなどを見たことがあると思います。みな居留地の中にあります。もしグランドキャニオンに行く機会があったら必ず通るであろう、キャメロンという小さい村があります、村の後ろ側には使わないウラン鉱石が捨てられています。いまや砂漠の砂と見分けがつきません。
 ウラン鉱滓の捨てられた所のそばには羊が放牧されています。汚染された草を食べて育ちます。羊の肉はナバホやプエブロ族の人々がよく食べる肉です。ですから彼らは何重にも被曝をし、放射能を体内に取り込むことになります。周辺地域の子供たちの間には、たくさんの障害が出ていますが、よく調べられていません。レポートも出ていますが、はっきりしたことが分かりません。ただ、確実に子供たちが被害を受けていると言うことが出来ます。

核実験場
 世界の核実験場で、アメリカは主な実験場は二つ、マーシャル諸島のこの前世界遺産になったビキニ環礁とエニウェトク環礁、1946年から58年まで67回、原爆と水爆の実験をやりました。それによって周辺の人たちが大変大きな被害を受けています。私たちがよく知っているのは、第五福竜丸被災事件、1954年3月1日にビキニ環礁で行われたブラボーという水爆の死の灰を浴びたことによって、福竜丸の乗組員23人が被害を受けたという事件です。
 ビキニ環礁には今、人が住んでいません。23回の実験をやったことで島中に放射能がばらまかれてしまっています。アメリカはお金をかけて何度も放射能を取り除こうとしたのですが、結局出来ませんでした。世界遺産になってもだれも行けない、誰もアクセスできない世界遺産、それがビキニです。
 このビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被曝したというのがきっかけとなって、原水爆禁止運動の原点になりました。それまで、我々はあの占領体制の中で広島・長﨑の原爆情報は日本人のほとんどに伏せられていたのです。第五福竜丸の被曝をきっかけにして、東京杉並の女性たちが、あるいは大阪の人たちが水爆実験反対署名運動というのを始めて、そこから始まったのが原水禁運動です。今我々が開いている大会もそこから始まったわけです。
 ビキニの人たちはもうずっと故郷の島を失ったままです。1946年に彼らは島を出ましたから、64年間も島に帰っていません。人間の寿命で言えば、もう3世代目に入っています。3世代、故郷の島を知らない世代が続いて、1世はほとんどいません。
 ブラボー実験では、東に180kmにあったロンゲラップ、さらに、470km離れてウトリック、この二つの島が放射能降下物の被害を受けています。今、アメリカでいろいろ機密解除になった文書が出てきているのですが、それを見ていると、マーシャル諸島ほぼ全体、1950年代から60年代にかけてマーシャル諸島にいた住民たちは、1万2千から1万4千と言われていたんですが、そのほとんどが実は被曝をしていました。我々がよく、広島、長﨑の体験から「唯一の被爆国」と言いますが、そうではない。マーシャル諸島共和国も独立した国です。国連にも加盟しています。マーシャル諸島も被曝国です。ですから「唯一の被爆国」なんて軽々しく言わない方がいいと思います。
 もう一つのアメリカの実験場は、ラスベガスの北西100kmにあるネバダ実験場です。ここは、ショショニと呼ばれる先住民族の人たちの大地です。そこをアメリカは勝手に国有地だとか、遙か昔に土地を貸そうという協定を結んでいながら、それに対する代替も出さず、金の補償もしないまま、ずっと使い続けています。
 ここでは1951年から1992年までずっとアメリカは核実験をやってきたわけです。大気圏内だけでも100回の核実験です。

 次に、2番目の核保有国旧ソ連です、今は独立したカザフスタンのセミパラチンスク実験場で467回、1949年から1991年までやりました。ここはカザフの人たち、馬で駆って羊の放牧をして暮らす人々の土地です。そこで核実験をやって、今やソ連という国は消えましたから、ヒバクシャだけが残されました。カザフの人たちはだいたい120万、多くて150万の人々が被害を受けたまま放り出された、というのが現状です。

 3番目の核実験をしたのはイギリス。1952年から57年までオーストラリアでやりました。オーストラリアもイギリス連邦だったわけですが、そこで12回の核実験を行いました。実験の被害を受けたのはアボリジニと呼ばれる先住民です。たくさん被害を受けたのですが、実態は未だによく分かりません。当時オーストラリアではアボリジニの人々が何人いるのか知らないんですね。なぜなら、1967年まで国勢調査の対象になっていなかったんです。それ以前は、何人、どこに住んでいるのか分からない。そういうところで核実験をやって被害を受けた人がたくさんいるのに分からない。その後、イギリスは太平洋中西部のほぼ真ん中にクリスマス島という島が有りますが、そこでも実験をやっています。クリスマス島はあまり人のいないところだったのですが、実験にはイギリス領の国の兵隊がたくさん参加させられました。その中には、ニュージーランドの兵隊、先住民族のマオリの人たちが入っています。この人たちも被曝をしました。この実験ではフィジー島からの300人の兵隊が参加させられて被曝をしています。

 4番目はフランスです。最初1960年から65年までは、アルジェリアのサハラ砂漠で核実験をやりました。実験によって、地元アルジェリアの人々、それからサハラ砂漠にはニジェールなど他の国もたくさんありますがそこにはトゥアレグ族と呼ばれる遊牧の民がいます。そういう人たちも被曝をしています、しかしよく分からないのが現状で今日まで来ています。1967年以降は、仏領ポリネシアのタヒチの南東1200kmにある、モルロア、ファンガタウファの2つの環礁で実験をしました。先住民のマオヒの人々の島です。そういう人々に被害を及ぼしながら、フランスは核実験をやってきました。

 最後は、中国です。1964年10月16日に新疆ウイグル自治区ロプノールというところで実験をしました。東京オリンピックの真っ最中でした。アジアにある中国の存在を誇示するためにあえて東京オリンピックの期間に原爆実験をやったんです。実験場周辺にはウイグルという先住民の人々がいますが、その人たちに被害を与えて核兵器を手にしました。チベットの独立問題は、新聞でよく目にされると思います、中国がチベットをどう弾圧しているのかも聞かれると思いますが、チベットを中国は決して手放さないだろうと言われています。なぜなら、チベットはウランの宝庫だからです。ほかの鉱物資源もたくさんあります。もし独立してしまったら、中国の工業生産が行き詰まると言われています。モンゴルのも中国の核実験によって被害を受けています。もう一つはすぐ東側にカザフのセミパラチンスク実験場があります。その死の灰も浴びて、二重に被曝している可能性もありますが、そのあたりのことはほとんど分かりません。被害を受けているのは確かですが、どの程度のものなのか分からないというのが現状です。

北極圏へも被害が
 もう一つ、私たちが全く忘れてしまう場所が北極圏。せいぜいオーロラがあるぐらいしか、あるいは、イヌイットと呼ばれる人たちがいるだろう、と言う程度しか知られていません。家に帰ったらいろいろ本を読んでみてほしいのですが、アメリカ、旧ソ連、イギリス、フランス、中国、この5ヵ国が大気圏内核実験、つまり地上でやったときに、そのほとんどが北半球にありますが、核実験で空高く放射能の灰を吹き上げると、ジェット気流が死の灰を北極に向かって集めることになります。
 北極には大陸がなく北極海を取り巻くようにロシア、カナダの大陸、グリーンランド、アイスランド、スカンジナビアがあります。この地域にだいたい250万人ぐらいの先住民族が住んでいます。その人たちに共通しているものが一つあります。どの先住民族も、トナカイ、カリブの放牧で暮らしており、主食がトナカイ、カリブの肉です。餌にしている苔が放射能を吸い込んでしまうと、苔を食べたトナカイ、カリブを先住民族の人々が食べることになります。
ここに取材に入ったときに、6人家族の所に行きました。だいたい1ヵ月の間に、70kgぐらいのトナカイ1頭を丸ごと食べます。ほとんど主食です。とくに内蔵は生で食べます。北極圏ではほとんど草が生えませんから、ビタミン栄養源になる新鮮な物がありません。内臓を生で食べてビタミンを補っているわけです。しかし、そこに放射能が集中しています。そういうものを食べることによって北極圏の人々が食道ガンや腎臓ガンなどに罹っているというのが少しずつ分かってきました。しかし、私たちは北極圏について全く知らないというのが現状です。

ウランは大地に留めておけ
 オーストラリアの中央部のオリンピックダムという場所が、オーストラリアでもっとも多くのウランを採掘しているところです。日本の原発のウランも今ここのオリンピックダムから来ています。ここはクカドゥという元々アボリジニの聖地です。1983年に彼らは聖地を守れと言うことで座り込みをしました。その後オーストラリア政府は採掘に許可を出して、土地の名前もオリンピックに変えてウラン採掘をしています。
 92年のザルツブルクの会議に集まった先住民族の人々は「まず、ウラン採掘をやめろ、ウラン採掘をすることによって毒をまき散らす原発が始まる」「ウラン採掘をすることによって、核兵器が拡がってしまう。だから、ウランは大地に留めておけ。そうすれば何事も起きない。だからこれ以上、我々の聖地を、我々の故郷を、母なる大地を傷つけないでくれ」と皆さん一致して声をあげました。そういうところから核兵器の被害も始まり、我々が知らないたくさんの被害が起きています。そういう人たちに被害を与えて我々は今日なお、温暖化防止策として、原発が必要だというのなら、あなたは間違いなく先住民に対する加害者なのです。


ウラン採掘の中止を(長崎 第3分科会)
メニュエル・F・ピノ

【プロフィール】
ニューメキシコ州の先住民プエブロのアコマ族の出身。1950年生まれ。生まれ育ったアコマ族とプエブロ族の「居留区」には、世界最大と言われた露天掘りの「ジャックパイル・ウラン鉱山」がある(1953~1982年操業)。1970年代後半から「全米インディアン青年会議」の活動家として、ナバホ族居住地の石炭開発の環境破壊問題などに取り組み、2001年の「反差別国連世界会議」には、先住民代表として参加。2008年には、他の先住民活動家とともに「核のない未来賞」を受賞。現在は、スコッツデール・コミュニティ大学( アリゾナ州) の社会学教授、アメリカ・インディアン研究課の責任者を務めている。また「先住民環境ネットワーク」「安全な環境を求めるアコマ・ラグーナ連合」「南西部調査情報センター」などの評議委員長としても活動している。

 私はアコマというニューメキシコ州の地域からきました、私たちの部族アコマは北米で最も古い先住民族の一つです。そして同じ場所にずっと住み続けている部族です。砂漠の大地の上に400メートルぐらいの高さの、砂のてっぺんが平らになった岩がありますが、それをメーサーと呼んでいます。そのてっぺんに村があります。
 白人の人たちは村のことをスカイシティー空の町の土地と呼んでいます。私たちは核被害者です。そして核エネルギーの利用の被害者でもあります。昨日私は広島の資料館に行ってまいりました。そこで様々な展示を歩いて見ながら込み上げてくる強い怒りを感じ、それと同時に本当に悲しい思いをしました。

広島・長﨑とのつながり
 広島・長崎でアメリカが行ったジェノサイド、虐殺というのは、本当に私たちがアメリカで被った被害と全く同じだと思います。アメリカ政府は私たちを虐殺しながら打ち立てられた政府です。そして私たちの土地を略奪してきました。しかしこのような事実に対して一切見ようとも聴こうともしません。今年は広島に大使が来られるんですね。そのような虐殺を広島でして歴史上初めて広島に来るということを私は聞きました。
 広島・長崎とそして私たちのニューメキシコ州とのつながりといいますのは、広島・長崎に落とされたファットマンそしてリトルボーイという二つの爆弾がアメリカ、ロスアラモス研究所でつくられましたが、その原爆の開発にあたって使われたウランというのは私たちの土地からとられ、そしてそのテスト実験は、原爆が広島・長崎に落とされるわずか数週間前にホワイトサンドというニューメキシコ州の実験場で行われました。
 広島・長崎に落とされた原爆の材料になったウランはカナダで採られたものです。開発の途中で使われたウランはニューメキシコ州のナバホの土地から掘られました。そしてその初めての実験がアパッチの人々の住む実験場で行われたわけです。ですから、日本の広島・長崎と私たちの被害とあるいはカナダの先住民というのは、そういう形でつながりがあります。

故郷の大地の下のウラン
 核エネルギーの一連の鎖の中の最も初めにあるのがウラン採掘です。私の住むアコマの土地の下にはグランツ鉱脈というウランの鉱脈があります。そこは1940年代の後半から90年の初めにかけて非常に集中的に北アメリカでは一番大量のウランを採掘したそういう鉱脈です。
 この地域には1,000を超えるウラン鉱山があります。そして非常に多くのウランを精錬する工場があります。そして60年間に渡る開発の中で、ずっと汚染による被害を受けてきましたし、今もその被害が続いています。
 様々な健康障害にみんなが苦しんでおり、ありとあらゆる種類のガンに関連した病気に罹る人が増えています。脳腫瘍ですとか肺ガン、胃ガン、大腸のガン、骨のガン、皮膚ガン、そして女性の場合には女性特有の乳ガンや子宮ガン、そういった病気が増えています。
 このような被害が続く中、私は核の平和利用という言葉を聞くにつけ本当にとまどってしまいます。そんな言葉があるのだろうかと。そして世界中のいろんなところの先住民の土地で同じような病気で苦しんでいます。
 私は日本に来て広島・長崎で被爆をされたお年寄りの方にお会いしましたが、彼ら彼女たちは私たちには被爆による広島・長崎による生存者、被爆者と言われました。その方々にお会いして私は、私もウラン採掘によるアメリカのニューメキシコ州の被害者であるということを確信しました。
 私はウラン採掘とその精錬による環境の破壊と私たちの土地で起こっている問題についてお話をしたいと思います。それは環境のありとあらゆるもの、空気、土、そして植物、全てが汚染をされているという事実です。最も重要なのは、やはり水の汚染です。そして人々がヒバクをし様々な病気になるということです。
 私がこのような活動に入ったきっかけの一つの場所というのは、ジャックパイルウラン鉱山です。この鉱山は30年間にわたって掘られ続けました。場所は私たちの住むアコマのすぐ隣のラグーナというところ、ラグナーナ・プエブロという人たちが住んでいる場所にあります。

露天掘りのウラン鉱山
 30年間ジッャクパイル鉱山で操業が行われていく間に、露天掘りですから、どんどん広がっていきます。その全体の露天掘りの広さは、当時世界で最大級の広い露天掘りの鉱山だと言われていました。そしてその30年間の間に2,400万トンものウラン鉱石が掘られ、その大量のウラン鉱石の90%以上がたった一つの場所に送られました。それはアメリカ合衆国の国防省で、そこで冷戦時代に大量破壊兵器である核兵器をつくるために使われたわけです。
 そのジャックパイル鉱山から非常に近いところに村があるんですが、計算すると600メートルぐらいです。本当に目と鼻の先のところにこの村がありまして、村の人口は当時2,500人ほどでした。
 風が東から西の方向に向けて、鉱山のほうから吹いてくるときには、この村を汚染したチリが舞い上がり直撃をします。そして当時、1950年代に鉱山会社や政府は、それがこの村が危険にさらされているということは一切教えてくれませんでした。そして人々は畑を耕すしトウモロコシやウリや豆をつくり続けました。そして鉱山のすぐ近くで牛や羊などの家畜を放牧して生活していたわけです。

汚染は拡がる
 川が鉱山を突っ切って流れていくわけです。だから鉱山から流れ出た汚染した土砂が川に流れ込み、そしてその下流の500kmぐらい遠くまでその土砂が汚染したものが流れていきました。
 ジャックパイル鉱山からの汚染した土砂流れ込んだその川はこの地域で一番大きな川だったんですが、下流の人々は今はその川が汚染しているということを知っていますが、当時は全くそんなことは知りませんでした。何十年も経ってからいろんな病気が増えてくるということで、その事実を知ったわけです。
 向こうは非常に乾燥地帯です。しかし、夏場はモンスーンの季節でして、そのときには結構雨が降り、ドライリバーではなくて本当の水の流れる川になります。そういうことで汚染した土砂が流れに沿って川の下流数kmまで土砂が運ばれていくというような状況です。1,200ヘクタールという非常に広い地域から川が筋で流れて来まして、その川とか表面の水流だけでなく地下の地下水も汚染されました。

「除染」の実態
 ジャックパイル鉱山が閉鎖されて30年も経ってから鉱山の除染作業、原状復帰作業の議論がされていました。どのように除染をするかという交渉を10年間続け、ラグーナの人々、地元の人々、そしてアナコンダの鉱山会社、そし連邦政府と議論を重ねてきました。そしてやっとどのように作業をするかということが決まりました。
 地中を掘った露天掘りのところの一番底の部分にウラン残土をそのまま埋め戻したんです。地下水のあるレベルまではウラン残土ですから汚染した土砂を埋め戻すという作業をしました。ウラン残土の上にまた違う、残土でない土や土砂を覆って地層をつくっていったわけです。
 原状復帰の作業がされた後は、底の部分に土が敷かれてなだらかになっています。斜面には土を覆ってカバーをしています。しかし、非常に斜面が急なところには土を埋めることができなかったので、むき出しの大地が見えています。
 このジャックパイルの原状復帰作業を、アメリカ政府は非常にうまくいった成功したと誇っているんですが、世界最大の露天掘りの鉱山では今まで復旧作業なんかやったことがないので、比べることができないようなところの作業を自分たちは成功したと言えるだろうかと、私たちは非常に疑問に思います。
 その原状復帰作業をやっている最中あるいはやった後のところに行きますと、雨が降った後に覆っていた土砂が下の方に流れていく状況が見られます。そして、鉱山の中に裂け目のようなものが見えます。覆った土が裂け目から流れ下の川に流れ込んでいます。
 私たちはこの裂け目のところに行ってガイガーカウンターで放射線を測ったのですが、連邦政府の安全基準をはるかに超えるような放射線が測られました。このようにいまだに放射能のレベルが高いにもかかわらず、連邦政府はこれは成功したと豪語しているわけです。
 ジャックパイル鉱山は非常に成功した除染作業を行ったと彼らは言っているわけですが、そのすぐそばに違う鉱山があります。その土地はニューメキシコ州が所有している土地ですが、州は予算がないということを理由に何もせずに放ったらかしにしています。

食べ物・飲み水にも
 問題は、牛とか羊とかいう家畜が汚染した草を食べたというようなことだけではなく、クマとかエルク、シカとかライオン、そういう野生の動物がこの丘を降りてこの放射能で汚染された水を飲んでいるという事実です。
 野生動物が汚染されるということを私たちは国連にも訴えてきました。国連の食糧機構(FAO)にその問題を提起しました。汚染したチリを食べた家畜やあるいは野生動物が汚染するということで、今国連のほうでは食物の安全保障フードセキュリティーということで、汚染した食物を汚染するということに対する宣言、そういうことをしてはいけないという宣言ができたわけですが、その問題に関連して私たちはやはりこのような水や私たちの食べ物が汚染しているということを証言してきました。
 次に私はアコマの西にあるナバホの人たちの土地のことをお話します。ナバホ族は、合衆国で一番住んでいる土地もあるいは人口も最大の部族です。その面積はアメリカのバージニア州と同じぐらいの面積があります。
 ナバホの人たちの住んでいるナバホネイションは四つの州が交わるところです。アリゾナ州、ニューメキシコ州、コロラド州、そしてユタ州という四つの州が交わるところに位置しています。ナバホの人たちの土地には1,300ものウラン鉱山、そしてウランの精錬所が存在します。精錬所が閉鎖されてから除染作業が行われるまでの期間はだいたい平均して10年くらいですが、その10年間の間は製錬所から出た廃棄物の山、それは全く野ざらしの状態でこの地域一帯の川に流れ込みそして地下水を汚染するというような状況です。
 ホームステイク精錬所という場所は、この地域でも最も汚染がひどいところです。この24 年間の精錬所での操業中、常にここの精錬の量はアメリカでトップ3に入る大量の精錬を行っています。
 先ほど申し上げたジャックパイル鉱山から流れ込んでいる汚染している川と同じ川の上流にこの精練所があり、両方の施設によって同じ川が汚染されています。ですからこの川が二つの施設によって汚染され、下流に流れて行ってウラン採掘や精錬のない場所のニューメキシコ州の地域にも汚染を広げているということが理解できるかと思います。
 ホームステイ精練所とジッャクパイル鉱山はアメリカ政府が言うところのスーパーファンドサイトと言いまして、除染作業を最優先して行い、そのための予算をつけるそういう場所があるんですが、両方ともそういうスーパーファンドサイトに指定されています。

日本の企業が進出
 このグランツ鉱脈の上に日本の住友商事が新しいウラン鉱山を開こうとしています。
実は今週月曜日に東京の住友商事の本社に行き、住友の方とお会いしたんですが、そのときに住友商事に対して私は、「どうしてこのように長年に渡る負の遺産、汚染があるようなところに新しい鉱山を開くのですか」という問題を提起しました。もう一つ住友商事で、「ロカ・ホンダの鉱山でウランを掘ったとしてもそれはほとんどアメリカで使うものではなく、ほぼ100%日本に輸出されるものだ」ということは申し上げました。
 もう一つの問題は、ロカ・ホンダでウラン採掘が始まれば、そのロカ・ホンダのところからまた川が流れ込んで、先ほど申し上げましたホームステイク精練所が汚染している川と同じところに流れ込んでいくわけですね。ですからまたそれによって人々、家畜、そして農業が影響を受けます。調査によりますと、このホームステイク精練所の近くの地下水を人々は飲んで暮れしているんですが、地下水の調査で、ほとんどの井戸の水がトリチウムによって汚染されているということがわかりました。
 ジャックパイル鉱山よりももっと小さい鉱山は、52年以上経ってもいまだに除染作業がされずに放置されています。このあたりの鉱山から掘られましたウランが広島・長崎の原爆をつくる実験に使われたウランですが、65年たった今日もそこのウラン鉱山は除染されずに残っています。ですから、広島・長崎とナバホの人たちとのつながりということがこういうところにも表われているのです。

被害の実態は
 40年代、50年代ごろにウラン坑夫が素手で穴の中、マスクも何もなし、換気もしないような環境で働いていました。人々が働くすぐそばに汚染した鉱滓が積まれていて、何のカバーもされていませんでした。当時、働いている人に対してマスクをしたり換気が必要だと危険なんだということを一切知らせてこなかったわけです。その結果、今日ウラン坑夫の肺ガンの率がウラン鉱山で働かなかった人たちの20倍~30倍というような頻度で出ており、5,000人にものぼるナバホの坑夫たちがガンなどの病気に罹っているという調査があります。
 ある推定によりますと、500人から600人のウラン坑夫がすでに1990年までに亡くなったと言われており、そして2000年までに500人から600人がさらに亡くなると言われています。しかし、ナバホの居留区は非常に医療機関から離れたところにありますので、そのような統計を正確にとるということが非常に難しいのです。
 連邦政府はいまだにきちんとした健康調査を一切やっていません。ですから、私たち活動家とかその状況を懸念する人たちがウラン坑夫あるいは元精錬工の健康調査をやっていますが、連邦政府はほとんどそれを支援してくれません。
 チャーチロックというところで1979年に起こった鉱滓ダムの決壊は、世界で起こった鉱滓が決壊して地域を汚染した最大の事故だったと言われています。その事件により4億5,000万リットルという大量の液体に混ざった汚染物が流れました。政府がその地域の汚染を除去する作業を始めたのはそれから30年も経った2009年になってからです。
 このようにして私たちがどのように核被害者になってきたかということがご理解いただけると思います。子どもたちは汚染した残土のところで遊び、人々はその残土を使って家までつくって家畜を汚染した草で育て、そして川が汚染してその水を飲み家畜も飲みそこで洗濯をしたりもしました。

見えない犠牲
 核の平和利用と言われますが、見えないところで病気になりそして多くの人々が亡くなっています。これはまさしく核による人種差別です。連邦政府は「あいつらはインディアンだ。放っとけ。死んでしまっても構わないんだと」そんな扱いをしてきました。私たちはそのような扱いに本当にうんざりしています。そういう嘘をつかれたこと、そういう扱いを受けたことにがまんがならないんです。
 もう一つ核のいわゆる平和利用を考える前に考えいただきたいのは、廃棄物の問題です。私はここに来る前に福井の原発を見に行きました。美浜の原発を見学したんですが、そのときに本当に驚いたのは原発が目の前に見える浜で子どもたちが遊び家族が海水浴に来ていたんですね。その状況を見て非常にショックを受けました。
 そして原発の横にある博物館で原発のPRセンターですが、そこで展示されていることは、いかに原発は安全かということしか人々に知らせていなかったんです。
 今日の会場を見回しましたら若い人たちが結構坐っていらっしゃるのを見ました。その若い人たちに申し上げたい。あなたたちが私たちの将来を築いていくんです。人間としてこのような問題を解決するのか、それとも今までのような核の汚染をずっと続けるのかということをぜひ若い人たちに考えていただきたいと思います。
 本当に今日はどうもありがとうございました。日本の人々と連帯してそして広島・長崎の記念すべき日にここに来られたということを本当に心から感謝したいと思います。それと先住民として私はここに来たことを決して忘れることはないでしょう。それと同時に私はアメリカ政府が私たちにしたことと全く同じことを皆さんにしたということに対して非常に心を痛めて、謝りたいと思っています。

【鹿児島の取り組み】東日本大震災関連・九州電力への申し入れ

2011年06月07日

2011年6月7日

九州電力株式会社
代表取締役社長  眞部 利應 様

原水爆禁止九州ブロック連絡会議
議 長  明石 佳成

原発はもういらない九州ブロック連絡会議
議 長  重野 安正

玄海原発設置反対佐賀県民会議
議 長  柴田 久寛

川内原発増設反対鹿児島県共闘会議
議 長  荒川  譲

東日本大震災と玄海・川内原発に係る申し入れ書

 貴職におかれましては、日夜、安心・安全な市民生活を確保するためにご尽力をいただいていることに対し心より敬意を表します。
 さて、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震とそれによる津波は、2万数千人もの死者や行方不明者、十数万人もの避難者や数十万にのぼる被災者を生み出すとともに沿岸部の街に壊滅的な被害をもたらしています。特に、「多重防護」という「安全神話」が脆くも崩れ去った福島第一原発の苛酷事故は今なお収束の目途が立たず、日本のみならず地球規模で原子力発電所及びその放射能汚染に対する健康不安や危機感が広がっています。
 菅首相は5月18日の記者会見で、川内原発3号機など2030年までに原発を現状より14基以上増やすとした政府の「エネルギー基本計画」を白紙にして見直し、再生可能エネルギーを基幹エネルギーと位置付け、省エネルギー社会を構築するとともに、地域分散型の自然エネルギーに対応して電力会社の発電部門と送電部門の分離などエネルギー政策の転換を明らかにしました。さらに原子力安全委員会斑目委員長は、原発の安全設計審査指針や耐震設計審査指針などの見直しを5月19日に明らかにしています。南日本新聞社が鹿児島県民を対象にした4月の世論調査によれば、7割近くの県民が増設に反対し、8割近くが太陽光・風力などの自然エネルギーを将来のエネルギーの中心にするよう求めています。
 貴社自らの判断に基づいて、新たな被曝者を生み出さず、国民に多大な犠牲と負担を押し付けて経営基盤を根底から揺るがす原子力発電事業から直ちに撤退し、人々に信頼される安心安全な電力供給をおこなうよう求め、下記のとおり申入れます。

1 増設手続きを凍結している川内原発3号機増設計画を中止し、白紙撤回すること。

2 玄海原発3号機でのプルサーマル運転を中止するとともに、政府に「核燃料サイクル計画」を放棄し、トラブル続きの高速増殖原型炉「もんじゅ」・高速実験炉「常陽」、六ヶ所再処理工場を廃炉にするよう求めること。

3 玄海原発1・2・3・4号機と川内原発1・2号機を計画的に廃炉にすること。
なお、定期点検にはいっている原子炉の再稼動については、地元自治体・議会及び住民の了解なしには行なわないこと。

(1)玄海原発1号機の脆性遷移温度が2009年には98度と想定を越して劣化し、93度未満という新設原子炉の業界基準を上回っているので直ちに停止させること。

(2)九州電力は、2011年3月30日の経済産業大臣指示≪津波により三つの機能(①全交流電源、②海水冷却機能、③使用済み燃料貯蔵プールの冷却機能)を全て喪失しても、炉心損傷や使用済み燃料の損傷を防止し、放射性物質の放出を抑制しつつ冷却機能の回復を図ること≫を踏まえた緊急安全対策が5月6日に国に評価されたとしている。
 しかし、この「緊急安全対策」は3月末時点で判明している知見に基づくものにとどまっているため、福島原発第一事故が未だ収束せず、事故の本格的な原因究明が明らかにされていないだけに、抜本的な安全対策が構築されるまでは運転を再開しないこと。少なくとも、九電が冷却機能を失わないよう平成26年度初めまでに完了するとしている対策を終えるまで再開しないこと。

(3)地震や津波対策がなされていないモニタリングステーション及びモニタリングポスト、放水口ポストの地震・津波対策を早急に行ない、整備計画を明らかにすること。

(4)玄海原発と川内原発それぞれに「原発安全地域審議会」(仮称)を新設し、苛酷事故に対応した住民の安全確保のシミュレーションなどの検討を、九電と行政、防災関係団体のみならず、地域住民の参加や原子力発電に批判的な知見を有する学識経験者を含めておこなうよう関係機関に求めること。

4 九州電力は5月31日、①東海・東南海・南海地震が連動しM(マグニチュード)9、②南海・日向地震が連動しM9、③対馬南西沖断層群・宇久北西沖断層群が連動しM8.1の3ケースを試算し、想定した地震により発生する津波の高さは発電所敷地高さより低く、敷地へ影響を及ぼすものではないとし、振動も基準地震動(玄海540ガル、川内540ガル)を下回ったと公表したが、以下の点を明らかにすること。

(1)国や有識者による「試算」結果の検証をおこなうこと。
(2)東海・東南海・南海・日向地震が連動した試算をM9以上でおこなうこと。
(3)玄海原発の耐震安全性評価において敷地に最も影響を及ぼす「検討用地震」とした城山南断層と竹木場断層及び評価対象とした8断層などが連動し、M9の地震を起こした際の試算をおこなうこと。
(4)川内原発の耐震安全性評価において「検討用地震」とした五反田川断層とF‐A断層、F―C断層及び評価対象とした13の断層などが連動し、M9の地震を起こした際の試算をおこなうこと。

5 マスコミ報道に係る九電の見解などについて

(1)福島第一原発は沸騰水型炉、玄海原発や川内原発は加圧水型炉だが、加圧水型の安全性に係るアキレス腱と指摘されている蒸気発生器との関連も含め、福島第一原発が加圧水型炉だったら被害が生じなかったのか明らかにすること。

(2)玄海原発及び川内原発の「耐震安全性評価結果報告書」の「津波に対する安全性評価」での津波評価(玄海は上昇2.1㍍・下降2.6㍍、川内は上昇3.7㍍・下降3.7㍍)を見直すとともに見直し計画を明らかにすること。
また、福島第一原発の津波に係る耐震安全性評価結果における津波評価内容と2011年3月11日の津波の上昇・下降水位を明らかにすること。

(3)福島第一原発1号機が津波前の地震で圧力容器や配管が損傷して放射性物質が放出したのではとか、3号機のECCS(緊急炉心冷却システム)の高圧注水系の配管が地震で破損していた可能性が報じられている。地震による福島第一及び第二原発などの被害状況を明らかにするとともに、原発の安全設計審査指針や耐震設計審査指針などの見直しを国に要請するとともに独自の見直し作業に着手すること。

(4)玄海や川内の使用済み核燃料ピットは地下にあるため、タンクとの水位差により全電源喪失時でも動力源無しに冷却できるとしているが、福島第一原発の原子炉建屋(閉じ込めるための5重の壁の一つで厚さ約1㍍の鉄筋コンクリート製)と川内原発燃料取扱建屋の強度及び密封性能の違いを明らかにすること。
また、福島第一原発の使用済み核燃料プールが原子炉建屋外の建屋地下に貯蔵されていたら今回のような事態に至らなかったのか、その理由とともに明らかにすること。

6 「電気ご使用量のお知らせ」について
 九州電力の「電気ご使用量のお知らせ」に、「太陽光発電促進付加金」とともに、印字スペースや示し難いことなどを理由に拒否してきた「原子力発電の廃棄物処理費用」(大島堅一立命館大教授によれば世帯あたり月200円強)を明示し、原子力発電の放射性廃棄物処理費用に係る消費者負担額を知らせること。また、福島原発事故の損害賠償の支払い財源を確保するために増税が検討されている「電源開発促進税」(1,000kwhにつき375円、標準世帯で月120円程度)額を明示すること。

7 計画停電について
 北海道・北陸・関西・中国・四国電力は節電数値目標を掲げていない(2011年5月26日:南日本新聞)にも関わらず、九州電力は5月18日の記者会見で、火力発電所のLNG燃料の調達が難しい場合は7月から9月下旬頃まで15%程度の節電を要請する考えを明らかにした。しかし、九州電力の「平成23年度供給計画の概要」の最大電力需給バランスでは、需要1,669万kWに対し供給力1,978万kW、供給予備力309万kW、供給予備率18.5%と、供給余力が十分にあることを明らかにしている。定期検査中の玄海2・3号機と川内1号機及び劣化している玄海1号機を除き、玄海4号機118万kWと川内2号機89万kWの計207万kWに2009年度末の原発以外の最大出力(設備容量)1,476万kWと小丸川1号30万kW(2010年7月運用開始)及び小丸川2号30万kW(2011年7月運用開始)を足すと1,743万kWになり最大電力需要1,669万kWを上回る。しかも、太陽光などの買い取り電力や他社からの購入電力、さらには計画停止発電所を稼動させ、廃止発電所の廃止時期をずらせば、節電数値目標など出さずに省エネを進めれば供給力は十分にある。
 2011年6月5日、石油やLNGの確保を理由に「九電電力不足回避へ」(毎日新聞)、「九電節電要請大幅に圧縮へ」(朝日新聞)と報じられたが、根拠不明な「15%節電」要請により定期点検後の原発再稼動を煽ってきたことは責任重大で許されない。これまで九電が「経営上の理由」だとして公表を拒んできた電力供給力の積算根拠などの情報を開示し、以下の点について明らかにすること。

(1)原発を稼動しなくても電力供給設備が十分にあることについて
ア 「平成23年度供給計画の概要」の最大電力時の供給力の積算根拠及び15%節電要請をすることとなった裏づけの供給力の積算根拠を、以下の8項目の電源ごとに明らかにすること。また、「供給計画の概要」と「裏づけ供給力」が相違することになった理由を明らかにすること。
    九州電力所有発電所の電力[①原発、②水力、③石炭火力、④石油火力、⑤LNG火力、⑥地熱などその他]及び⑦太陽光などの買い取り電力、⑧他社からの購入電力。
イ 2009年度末の最大出力(設備容量)は193発電所、2,002万kW(電気事業連合会)とのことだが、2011年3月末の最大出力(設備容量)を明らかにすること。
ウ 計画停止中の唐津2・3号機計87.5万kWの稼働時期を明らかにすること。
エ 平成23年度に廃止計画のある苅田新2号37.5万kW及び平成24年度に廃止計画のある大分1・2号機計50万kWの廃止時期の見直しの検討状況を明らかにすること。廃止時期を延長する場合は、新たな廃止時期を明らかにすること。
オ 2001年3月に着工後、工事をストップし2023年度以降に運用開始予定の松浦2号100万kWの工事再開の検討状況を明らかにし、再開する場合はその時期と運用開始時期を明らかにすること。

(2)燃料確保について
石油元売り会社で構成する石油連盟会長が「全体では足りている」(5月28日付け毎日新聞)と記者会見しているなかで、節電の根拠として石油火力発電所の低硫黄石油などの調達が難しい(5月25日付け南日本新聞)ことなどが報じられている。低硫黄石油とLNG(液化天然ガス)、石炭のそれぞれについて、燃料不足・価格・その他の面から燃料調達の見通しについて具体的に明らかにすること。

(3)電気使用量の縮減策などについて
ア 政府は、東京電力と東北電力管内で電力使用制限令により、大口需要家を対象に一定期間の一定時間帯に4段階に分けた削減義務付けようとしている。九州電力による「15%節電実施計画」(もしくは見直し後の「節電計画」)の詳細な内容と、実施された際の供給予備力、供給予備率を明らかにすること。
イ 電力消費の拡大に繋がる「オール電化」に係る営業活動を自粛し、ガスなど他のエネルギー源の活用も図りながら社会全体の省エネを推進すること。

8 「原水禁エネルギー・プロジェクトからの提言/持続可能で平和な社会をめざして」(原水爆禁止日本国民会議)及び「社民党脱原発アクションプログラム」(社会民主党)を踏まえ、「エネルギー基本計画」を白紙に戻し、再生可能エネルギーを基幹エネルギーにして省エネ社会を構築するという原発中心のエネルギー政策を転換するという政府の方向性を後押しし、原子力発電事業から撤退して自然エネルギー・再生可能エネルギーを中心とした小規模・地域分散型電力供給体制を構築すること。

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