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長崎大会第6分科会「強制連行と被爆を考える」

2015年08月08日

長崎第6分科会

於ブリックホール3F

参加者:52人     20代 12-3人、30代 14-5人、40-59代 16-7人、60以上 9-10人
初めて 14-5人、2回目 9-10人、3回目 8-9人、4回目 8-9人、5回以上 12-3人

・司会者が「大会運営の基本ルール」を説明し、運営委員が参加者の傾向を把握して始めた。

◇高實康稔さんの報告「強制連行と被爆を考える」
はじめに
   広島でも長崎でも被爆者の1割は朝鮮人であった。「唯一の被爆国」といい、原爆の悲惨さと核兵器廃絶のみを訴えて、戦争責任を追及しない態度は許されない。
1 段階的に強化された朝鮮人強制連行   日中戦争の激化に伴い労働力不足に陥った産業界からの要請で、1939年「労務動員実施計画」に組み込む形で、1925年以降の渡航制限政策を廃止して、「朝鮮人労務者内地移住に関する件」によって開始。当初は、甘言で騙し生活苦にあえぐ農村から「募集」できたが、過酷な労働現場と生活環境が知られるにつれ応募者は減少。募集人員を確保するために官憲が乗り出すことも。42年、「官斡旋」で直接指名になる。役人と警察官がトラックで乗り付け、有無を言わさず連行。44年、徴兵制と同様に、出頭場所と日時を指定して「徴用」。「募集」「官斡旋」も実態からみれば、強制連行というべき。
2 広島・長崎に激増した強制連行   軍隊への徴発も大きい(36万4千余人、2万人超の戦死者‐靖国神社に合祀)が、労働者は日本政府公認で72万5千人であり、推定126万人とも言われている。広島・長崎では、敗戦前7年間に激増。広島は84886人で3.4倍、長崎は61773人で7倍。いずれも三菱重工業をはじめとした軍需産業への就労であった。
3 中国人の強制連行と被爆   労働力不足を補うために、42年「華人労務者内地移入」を開始。最初は捕虜だったが、大半は日本軍に拉致された農民だった。敗戦後、東京裁判に備えて外務省が各事業所にまとめさせた報告書では、わずか一年余りで約4万人が強制連行されていた。6830名もの死者がでているが、連行中の死も、広島では無休・無給への反発からの取り調べ中の爆死者もいる。
4 在外被爆者援護の進展と課題   朝鮮人被爆者は広島5万人、長崎2万人、うち3万人と1万人が45年末までに亡くなり、2万3千人が帰国した。被爆者援護法ができても、在外被爆者は対象外とされた(402号通達)ため、闘いが起きた。裁判も重ねつつ、郭さんが2002年「被爆者はどこにいても被爆者」を引出し、2010年原爆症認定の「来日要件」は撤廃させたものの、課題は残る。

◇郭貴勲さんの証言   20歳で徴兵され広島に来た。爆心から2キロで工兵隊106人が同様のやけどをおった。1週間意識がなく、25日に部隊解散して帰国したが、年末まで腕をつっていた。大学に復帰、朝鮮語を勉強し直して教員になった。朝日会談を見守っていたが、被爆者の保障にはまったく触れず、不信感をもった。朝鮮から広島にわたった人の7割が狭川出身、田畑が少なく貧乏で、教育も受けておらず、戸籍も定かではなく、帰国後も社会保障の対象とならず苦しんでいたので、被害者団体を作った。98年5月に大阪で治療を受けた際被爆者手帳を交付され、健康管理手当も支給されたが、帰国したら切られたので、98年10月提訴した。裁判では、「訪日する前は被爆者ではなく、日本では被爆者、帰国すると被爆者じゃない。おかしい」と訴えて認められた。

◇チョン・テホンさんの証言   長崎に住んでいた中学一年の時、被爆。爆風で飛ばされたが、外にいた父と母はやけどがひどかった。2日間防空壕で過ごし、兄が持ってきたリヤカーに母を載せて避難。その時見た惨状は忘れられず、語り継がねばと思ってやってきた。

・質疑では、高實さんが説明されていたのだが、朝鮮人と中国人の処遇の差はどこからくるのか、赤紙と徴用は違うのか、等と出された。募集人に朝鮮人がいた実態も言うべきという人もいた。

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