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原水爆禁止世界大会・広島大会のまとめ(藤本泰成・大会事務局長)

2014年08月06日

事務局長の藤本です。昨日までの積極的な議論に敬意を表します。若干の時間をいただいて、議論のまとめを行いたいと思いますが、議論のほんの一部に触れることしかできないことをお許しください。

7月15日に厚生労働省が公表した「2012年の子どもの貧困率」は、16.3%で過去最悪を更新しました。7月30日付の読売新聞の記事には、水道を止められ、電気も止められた部屋で、ひとり母親の帰りを待つ少女の話が掲載されました。水道を止められた部屋で、帰宅した母と空のペットボトルを抱えて公園で水をくみ、家に帰っておにぎり1個をほおばった。この日初めての食事。アジアの奇跡と言われる経済成長を遂げた日本の現実です。

東日本大震災および福島原発事故の結果に対する救援対応の複雑さに留意しつつ、委員会は、避難の際にならびに再建および復興の取り組みにおいて、不利な立場および脆弱な立場に置かれた集団(つまり、高齢者、障害のある人、女性および子ども等)の特有のニーズが十分に満たされていないことを懸念する。

これは、昨年5月に出された国連社会権規約委員会の日本への総括所見の文言です。昨日の提起の中でも述べましたが、一人ひとりの犠牲に立って、復興が図られていく、社会的弱者の切り捨ての中で、復興が行われていく社会であってはならないのです。私が、原水禁大会のまとめにあったって、貧困の話をさせていただいたのは、日本の政治が、決して個人の命を問題にしない、そういうふうにして戦後社会を貫いてきたと思うからです。
原水禁は、福島原発事故以降「一人ひとりの命に寄り添う政治と社会」の実現を、求めてきましたが、国連が指摘するとおり、弱者の犠牲がまかり通っています。

ヒロシマ・ナガサキのヒバクシャは、戦後、差別と貧困の中で、また親族をすべて亡くした孤独の中で、生きてきました。開会集会で話された池田精子さんは「絶望の中で、生きる勇気の道を選ばせていただいた」「道端や川岸で、断末魔の声を上げ助けを求めていた人の苦しみを思えば」と話されました。ヒバクシャの思いに、政治が本当に寄り添ったことがあったでしょうか。
奇跡の経済復興を遂げたと賞賛される日本社会は、しかし決して豊かな社会ではなく、社会的弱者に対して厳しい表情を常に見せているのです。

第6分会の発言者、医師の振津さんは、放射線影響研究所が、過去8万人のヒバクシャの何十年にも渡る調査の中で、「放射線障害には閾値がない」との結論を出した。放射線はその多少に関わらず、健康リスクがあることが明らかになっていると指摘し、「政府は、フクシマを風化させようとしている」今、フクシマとヒロシマ・ナガサキを結んで、国策で原子力を推進し重大事故を引き起こした責任、避けられた被曝を避ける努力をせずに被曝させた責任を、その後も放置している責任を、明確に、国に謝罪させ、補償せさるための運動が必要だとしました。
「国の責任で健康と命を守ることを求める運動を!」これはフクシマだけの問題ではなくて全国の課題です。なぜなら、フクシマにどう向き合うかで、日本社会のあり方が問われるからです。

第一分科会で、福島県いわき市から来た、自治体職員の斎藤英毅さんから、住民非難と役場機能の実態が報告されました。それまでの避難計画や避難訓練が、何の役にも立たなかったこと、地震でライフラインが切断された中で、何の情報もなく、孤立した中での手探りの避難であったこと、避難の中で、高齢者や要介護者、入院患者の方々が命を失ったこと、仮設住宅と借り上げアパート、バラバラになっていく住民の掌握が困難で、コミュニティーが崩壊していったこと。あらゆる問題が重層的に積み上がったことが報告されました。
自治体職員も避難生活を余儀なくされ被災者であった事実があり、対応する職員がメンタルで、過労で、健康を害していく状況が報告されました。正規職員の2倍の臨時職員の居る町もあり、復興はまだまだ終わらないと指摘しました。

同じく第一分科会で、川内原発の再稼働をめぐって、今、このまとめ集会でも発言されました菖谷さんから報告がありました。
今、UPZ圏内の自治体には、避難計画の策定が義務づけられていますが、その内容はあまりにも不完全であり、地域住民の再稼働への不安は、大きくなりつつあると報告されました。また、伊藤祐一郎鹿児島県知事の「原発から半径10km以遠の、要介護・支援者の避難計画は、現実的ではない、策定できるが実効性に欠ける」との発言に、住民が強く反発していることや3万年前に噴火し川内原発へも火砕流が到達していることに、何の対策もないとも報告されました。
県知事の発言に対する反発は当然です。しかし、裏を返せば、フクシマでもそうであったように、何万、何十万という地域住民を、速やかに避難させることがどれだけ困難かと言うことではないでしょうか。地域住民の命など範疇にない政府は、再稼働のためには「避難計画」など障害としか考えていないのです。実効性ある避難計画の策定を前提にすると、原発の再稼働はあり得ないのです。
福島第一原発で、これだけ重大な事故を起こし、未だ避難生活を余儀なくされている方々がいるにもかかわらず、原発の再稼働をすすめる政府の姿勢は、許されません。自民党政権が、戦後一貫して私たちの側にいなかったこと、ヒロシマ・ナガサキが、そして今、フクシマが明らかにしています。

第3分科会、そして国際会議において「日本のプルトニウム政策は、核兵器課題である」と言う視点から、東北アジア非核地帯構想どう取り組むべきか、何をすべきかという議論を展開しました。核情報主催の田窪政文さんから、六ヶ所の再処理問題は、これまで原発問題との視点でとりくまれてきたが、核問題との視点が重要との指摘があり、長崎大学核兵器廃絶研究センター教授の鈴木達二郎さんも、東北アジアの非核地帯構想の議論にプルトニウム課題を入れるべきとしました。韓国からのゲスト、イ・ヨンヒさんからは、日本が認められている再処理を韓国が認められないのは不公平だとの感情が湧きつつあり、中には核兵器を所有すべきだという意見も出始めているという報告がありました。
米国からのゲスト、ジェイムズ・アクトンさんは、米国は、日本に再処理の放棄を要求しない、また韓国の再処理も認めない、との見解を表明しました。まさに、原発を保有していると同等の、鈴木さんの考えでは、核兵器開発能力を既に保有している日本が、中国からも脅威とされるプルトニウム利用政策を放棄できるかが問題となります。イ・ヨンヒさんは、政策は日本の決めることと断りながら、それは韓国に大きな影響を与えるとの見解を示しました。日本の勇気ある決断が、東北アジアの非核化、平和の醸成に繋がるものと考えます。

このような、平和への私たちの取り組みをあざ笑うかのように、安倍首相は、「7・1クーデター」と言うべき手法で、つまり、憲法99条の「憲法尊重擁護義務」に、憲法96条の「改正手続き」に、そして憲法9条の「平和主義」に違反する、立憲主義、法治主義に反する、閣議決定をもって、これまで内閣法制局および歴代政府が「集団的自衛権の行使は、権利として持っているが、憲法9条に違反し使うことはできない」としてきた憲法解釈の変更を行いました。
「国を守る」として、集団的自衛権を行使することは、敵をつくると言うことです。そのことがどれほど愚かなことかは、この間の中国や韓国の日本に対する姿勢を見ても明らかです。そして、集団的自衛権の行使は、戦闘行為に、好むと好まざるとに関わらず参加すると言うことです。それは、戦闘行為によって誰かが命を失うと言うことなのです。
安倍首相は、戦闘に参加する自衛隊員の命の問題には決して触れようとしませんでした。原水禁は、国という漠然としたものを守るために、一人ひとりの命が失われることを決して許しません。歴史は、そのことの明確に主張しています。

今、ネット上で若者に話題の詩があります。

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命とも
思わなくなった

じゅんび

ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる

ネット上で話題になっている宮尾節子さんの詩です。
この詩は、7年前に書かれたものだそうです。

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