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【ニュースペーパー2011年3月号】原水禁関連記事

2011年03月01日

●世界のヒバクシャを見つめ続ける「まなざし」
フォトジャーナリスト 豊崎 博光さんに聞く

●使えない核兵器の意義を無くすための次の手段は?
新START発効とその後のステップ

●台湾で新たな被爆者調査を行う
実態を把握して早急な支援体制を

在外被爆者支援連絡会 共同代表 平野 伸人

●広がるチュニジア・エジプト革命の影響
米ロの軍事戦略の違いが顕在化

●チェルノブイリ事故から25年
悲劇は今も終わらないまま

チェルノブイリ子ども基金 事務局長 佐々木 真理


世界のヒバクシャを見つめ続ける「まなざし」

フォトジャーナリスト 豊崎 博光さんに聞く

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【プロフィール】
1948年、横浜市生まれ。復帰前後の沖縄、在日韓国人・朝鮮人、アメリカ・インディアンなどを取材後、アメリカが核実験を行った太平洋中西部、マーシャル諸島のビキニ島住民や水爆実験の死の灰を浴びせられたロンゲラップ島住民などの取材をきっかけに、世界各地の反核・反原発運動などを追うようになる。

 

 

 

――核をテーマに仕事をされるようになったきっかけを教えてください。
 今から33年前の1978年3月末、グアム島にあるアンダーソン空軍基地で、航空機・B52に同乗して取材する予定だったのですが、その直前の新聞にマーシャル諸島・ビキニ環礁の話が掲載されていました。当時ビキニ環礁には、核実験が終わった後にアメリカ政府が「安全宣言」を出したことで、島民が戻っていました。しかし、帰った島にはまだ放射能が残っていて島民たちが汚染されたのです。それでもう一回閉鎖しますという記事でした。それを読んで、グアム島の取材が終わったらビキニに行こうと決めたのが最初です。その頃から原水禁国民会議と付き合うようになりました。
ビキニに入って取材を始めたのですが、そう簡単にはいきませんでした。核実験の跡は目に見えるものだと思っていたのですが、実際には全く見えないわけです。例えば、地中に放射能が残っていて、「ここの椰子の実は危険な食べ物だ」と言われても、その椰子の実は別に変形しているわけでも何でもありません。島の人も、「これのどこに放射能があるのだ、何にも変わっていないし、味も変わっていない」と言いました。このとき、放射能という全く見えないものを表現する難しさを感じたのですが、非常に奥深い問題であると考えて、とにかく現場に行って写真を撮ることを始めました。ビキニの核実験の跡を感じさせるものは、まだ少し残っていましたが、もっぱら島の人たちの暮らしや表情を中心に撮りました。しかし、話を聞けば非常にその内容は重いわけです。
その後、アメリカ国内でも同じことが起きているのではないかと思い、翌年からネバダの核実験場などへと取材を広げていきました。

――戦後、冷戦という形を伴って核被害者を再生産させたという事実は重いですね。
 旧ソ連が原爆を持つことになってイギリスが追随し、フランスや中国なども持つようになりました。核軍拡が続く一方でしたが、その陰で、実はたくさんの人々が被害を受けているということを重要なことだと感じたのです。きっかけはマーシャル諸島のことでしたが、80年にはアメリカのネバダ実験場やアリゾナ州の先住民族・ナバホインディアンの居住地における、ウラン採掘などによる被害の取材を行いました。
アメリカの取材ではウラン鉱石から始まり、核兵器の開発、79年のスリーマイル島の原発事故まで、一連の流れの中にある被害者の姿を知ることになりました。

――核開発が先住民を抑圧しています。
 核開発が権力に弱い地域を利用して行われてきたという話は、80年代後半に出てきます。初めてその話を聞いたのは、88年にカナダのサスカトゥーンというところで、「先住民ウラン公聴会」という小さな集会があったときです。そこに、アメリカの先住民やオーストラリアの先住民・アボリジニとカナダの先住民がやって来て、「ウラン採掘から核実験によってわれわれは被害を受けている」ということを言ったのです。そのとき、先住民たちが一方的に被害を受けている、偏っているという意味合いとして「Racism」(レイシズム)という言葉を使いました。
先住民族の核被害が認識され始めたのが、マンハッタン計画開始から50年目の92年にオーストリアのザルツブルグで開かれた「世界ウラン公聴会」です。つまり、核兵器が使用されたのは「ヒロシマ・ナガサキ」ですが、世界の核開発はマンハッタン計画を端緒にして始まり、世界中でウラン採掘が始まったわけです。その75%が先住民族の居住地域に当たっていました。そこに注目した彼らがウラン公聴会を開いて、ウラン鉱石の採掘から核実験、原発から核廃棄物の処理など核開発のあらゆることを全部、先住民族のところで行っている、被害を与えているではないかと訴えました。そのとき初めて、核開発による人種差別という意味の造語である「Nuclear Racism」を使いました。
一般的に先住民族は、後から来た入植者たちによって、最初は肉体的に消す、つまり殺されるという形で、次にはかわいそうだから保護しようということで、居留地をつくって「同化」を強要してきました。最初の虐殺は、英語で「Body Determination」、肉体的根絶と言います。「同化」していくことはCultural Determination(determinationは「根絶」)と呼んで文化的に根絶していく。つまり、あなたたちの持っているものはいらない、アメリカ化しなさい、文明化しなさいとしたのです。先住民たちはそのような被害を受けながら生き残ったところでもう一つ、核開発の被害にあったのです。どれも並行して行われてきました。
「Nuclear Racism」という言葉の一つ前に、今でも使われている言葉が、「Environmental Racism」というのがあります。
これは、環境汚染の一番ひどいことが、全部先住民族に行くということです。例えば、マーシャル諸島の人々や、北極圏に住んでいるイヌイットの人々などに一番被害が集中します。「Environmental Racism」という言葉は、新しい辞書にはすでに載っていると思います。そして、環境破壊のもう一つは核開発の影響であるというのが90年代になって出てきました。それが世界を支配してきました。マンハッタン計画の開始を端緒にすれば、核開発はそういう少数の先住民族の人々にずっとその被害を押しつけることで成り立ってきたということで、今も続いています。
原発が温暖化の切り札だと言って日本もそれに乗っかっています。90年代の終わり頃にこれに一番敏感に反応したのはエネルギー産業界です。原発をつくることで燃料のウランが足りなくなることがわかると、あっという間に世界中でウラン採掘が始まりました。全部少数民族の住む所です。今、集中的に採掘が行われているのはカザフスタンやアフリカです。アフリカには、アメリカやヨーロッパのような採掘の際の環境保護の規制がありません。だからやり放題の採掘です。そうして得た安いウラン燃料を手に入れ、原子炉とセットにして原発を売るということです。われわれの暮らしもそのことによって維持されています。

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 1954年3月1日、水爆「ブラボー」でできたクレーター

 

――平和フォーラム・原水禁に何かお願いします。
 原水禁が「非核太平洋運動」を始めたときに、「反核」ではなく「非核」という言葉が入りました。それまで反核というのは「核兵器はいらない」、あるいは「原発はいらない」というものでした。そうではなく、非核ということはあらゆる核をわれわれは廃絶するとしたのです。太平洋の非核化運動というのは、核実験を体験したビキニなどやマーシャル諸島、クリスマス島やポリネシアが核実験を体験したから非核としたのではなく、かつて太平洋に核廃棄物を投棄され、また核廃棄物が投棄されようとしているから非核だと言ったのです。捨てられる廃棄物は原発のものでもあるし、医療用のものもあります。原水禁には、反核というより非核、あらゆる核を使わない、拒否するという方向で運動を続けてほしいと思っています。
原水禁が中心になって、以前は核被害者世界大会を開いてきたわけですし、その経験を活かして、ヒバクシャを救済する、あるいは補償法をつくる。ヒバクシャの問題を一国の問題としないで、むしろ国連の世界人権宣言のように、「世界ヒバクシャ人権宣言」を制定するくらいに、国際的なレベルに押し上げられるよう、取り組んでほしいと思っています。

〈インタビューを終えて〉
豊崎さんは、マーシャル諸島ロンゲラップ島やネバダ、セミパラチンスクなど、米ソ冷戦下の核実験で被曝した人々の生きざまを撮り続けてきました。核実験場で被曝した先住民や関係者、チェルノブイリなど原子力発電所の事故で死の灰を浴びた人々は数百万人を超え、甚大な被害となっている事実は意外と知られていません。3.1ビキニデーを前に、核被害者の実態、人類と核は共存できないという歴史的な事実を再認識しなければならないでしょう。〈藤岡 一昭〉

使えない核兵器の意義を無くすための次の手段は?
新START発効とその後のステップ

難関を突破、ようやく新たな一歩
 米国とロシアは2月5日、ミュンヘンで戦略兵器削減条約(新START)の批准書を交換して、条約を発効させました。長い交渉を経て昨年4月の署名発表以来、もっとも懸念されていたのは、米上院での批准承認でした。中間選挙で大敗した米国民主党では絶望視された批准承認を、ぎりぎりの議会運営で年末に採択。続いてロシアの上下院でも批准承認して、なんとか両国とも核軍縮の旗ふり役にとどまり、核無き世界への第一歩を踏み外さずに済んだ形です。
これで戦略核兵器の配備数を2018年までに1,550とする上限ができました。数を見れば、成果は極めて限定的ですが、2009年12月のSTART-Ⅰ失効以来、実施できなかった両国の戦略核の検証が可能になり、条約発効をミュンヘン安全保障会議に合わせて行ったことからも見えるように、他国にも核軍縮を訴えやすくなる意味もあります。

次の焦点は戦術核、ミサイル防衛の問題も
 さらに核軍縮へ向け、新START対象外の戦術核の削減条約交渉を計画する米国に対して、ロシアは通常戦力で劣り、北大西洋条約機構(NATO)諸国・中国との長い国境に接している地理条件もあり、消極的です。米国の戦術核は合計で500、そのうちヨーロッパに配備されているものは、ベルギー、ドイツ、オランダ、イタリアの各国の基地と、イタリア、トルコ内の米軍基地に配備されている核爆弾B61が200と推計され、戦闘機F-16やトルネードに搭載されます。
このヨーロッパ諸国の核弾頭については、11月のNATOリスボン・サミットで注目すべき戦略概念が発表されました。1999年以来11年ぶりに改訂され、NATOの今後の指針となる新戦略概念では、核兵器の無い世界のための条件をつくり出すため、「核兵器が世界に存在する限りNATOは核同盟であり続ける」とオバマ大統領のプラハ演説に平行する形で核抑止を認めています。しかし、ヨーロッパ配備の戦術核に関しては、NATOでの欧州と米国の間の不可欠な政治的・軍事的リンクであるとする99年の戦略概念にあった表記が消え、戦略核のみが重要であるように変わっています。戦術核兵器の配備が政治的・軍事的役割を無くしたと解釈できます。
これまでも、2009年にドイツが戦術核配備の撤去を提案するなど、議論されてきています。また、99年から2010年までに、ロシアの戦術核配備に関係なく一方的に約480から200に削減されてきた経緯もあります。90年代のブッシュ大統領による一方的核削減の成功を思い起こせば、米軍のヨーロッパ配備の戦術核の一方的な撤去こそが合理的判断のはずです。
新戦略概念は一方で、ミサイル防衛(MD)を重要な抑止力として強調しており、さらにこの指針を実際の核政策に反映させる今後の議論では、強硬姿勢を示しているフランスとの妥協もあり、一筋縄では行きそうにありません。MDについては、米上院での批准承認に際して、これと引き換えに、条約がMD開発に制限をかけないとする決議を採択しています。

核無き世界へ確実な歩みを
 アジアではどうでしょうか。2月8日に発表された米国の7年ぶりの「国家軍事戦略」では、北朝鮮の核開発や中国の軍拡を強調し、アジア太平洋地域を最重視しています。米軍は北東アジアで今後数十年、強固な軍事力を維持すると記されており、米国や同盟国への核攻撃抑止が核兵器の基本的役割としています。核抑止の考えは変わっていません。
戦術核に関しては、日本からの働きかけで特記すべきこととして、米国の戦術核全体の5分の1を占める核トマホーク(TLAM/N)の退役決定があげられます。従来の日本政府は米国に対し、核卜マホークの退役に反対し、核先制使用のオプション維持も要請していました。退役決定には、昨年4月の米国核態勢の見直し(NPR)決定に向けた、当時の岡田外相からの書簡や、日米の反核運動が連携した働きかけも功を奏したと思われます。
他方、北朝鮮の核開発で新たに明らかになったウラン濃縮、またヨンピョンド(延坪島)砲撃などを受けて韓国国防相が戦術核の再配置検討に言及するなど、南北軍事協議の不調も含めて、情勢は流動的です。日本の核依存政策も、核先制使用については、従来の容認姿勢から変化の流れが見えたものの、実際の政策としては変えられていないのです。核の無い世界へ向けて確実に歩みを進めなければなりません。


台湾で新たな被爆者調査を行う
実態を把握して早急な支援体制を

在外被爆者支援連絡会 共同代表 平野 伸人

乏しい外国人被爆者の情報
 国外に居住している被爆者のことを在外被爆者と言います。しかし、在外被爆者は2種類に分類されます。それは外国人被爆者と日本人被爆者の2通りです。アメリカやブラジル、南米に移民として居住するようになった被爆者や、仕事やその他の理由で国外に居住するようになったのが「日本人」被爆者です。
しかし、広島や長崎で被爆したのは日本人ばかりではありません。韓国・朝鮮人や中国人、オーストラリアやイギリス、オランダなどの捕虜なども被爆しました。そして、韓国・朝鮮と同じように植民地であった台湾の人も被爆しています。しかし情報が乏しく、これまで実態が明らかではありませんでした。調査についても、関係者が居た長崎医科大学関係の被爆者についての調査が、昨年行われたに過ぎません。今回、14人の台湾の被爆者に関する情報を得て、1月15日から3日間台湾での被爆者調査を行いました。

政府が初めて在外被爆者の調査を報告
 昨年12月に厚労省のホームページに「平成17年原子爆弾被爆者実態調査」(調査概要)がアップされました。この調査は「被爆者の生活、健康等の現状などを把握することを目的」として2005年度に実施され、このたび、調査結果がまとめられたものでした。国内の被爆者65,217人(回答者48,689人)が主とした対象者ですが、今回の被爆者調査では、初めて「国外調査」として、在外被爆者への調査が行われています。
「国外に居住している、平成17年9月1日現在の被爆者手帳および被爆確認証交付者3,058人のうち、死亡、長期不在及び所在不明の事実が判明したものを除いた3,039人に対し、調査票を郵送して調査を実施した」もので、回答のあった人は、2,499人となっています(回答率82.2%)。
今回の調査報告で注目されたのは、台湾の被爆者の14人の回答でした。台湾人の被爆については、何人かの所在が確認され、私も訪台して調査を行っています。そのときは、全員が長崎医科大学関係者でしたが、今回の回答者の被爆地をみると、広島6人、長崎8人と、「広島で被爆した台湾人被爆者もいる」ということが判明しました。韓国・朝鮮人以外は、極めて少数の外国人がいるだけですので、「外国人被爆者」としては、台湾の被爆者は人数的にも多いほうだということになります。

1103_33.JPG台湾の被爆者・王文其さん(左)に話を聞く平野さん(手前)

 

情報が届かず援護対策に遅れ
 そこで、所在の判明した被爆者9人と遺族2人に面会しました。内訳は、広島で被爆した人が3人、長崎で被爆した人が6人、長崎の被爆者ですでに亡くなった被爆者の遺族2人です。67才から97才までの男性6人、女性3人の被爆者に面会して、被爆状況や原爆前後の生活、被爆後の健康状態について聞きました。
今回の調査でわかったことは、①勉学のために日本に来た人が多い。特に長崎は長崎医科大学関係者がほとんどだった。②経済状態は、医学関係、学校関係者が多く比較的裕福に感じた。しかし、「援護が十分でなく苦しい」という人もいて一様ではない。③健康状態は高齢のために厳しい状況にある。④日本の被爆者援護については情報が行き届いていなくて、被爆者手帳の取得が遅れた人が多い。一方、日本との行き来があった人は早い時期に被爆者手帳を取得しており対照的であった。また、402号通達のために被爆者手帳を取得しても意味がないと思い、被爆者手帳の申請が遅れた人もいた。⑤被爆者団体や支援団体がなく支援体制がない。行政の支援もほとんどない。
以上のことが、今回の調査でわかったことです。今後、さらに新たに所在の明らかになっている3人の被爆者と死亡している被爆者の遺族との面会を行い、台湾の被爆者の実態把握に努めるとともに、支援体制の確立に尽力していかなければなりません。


広がるチュニジア・エジプト革命の影響
米ロの軍事戦略の違いが顕在化

 

変革の動きは中東全域におよぶ
 チュニジアからエジプトへと続いた体制変革の波は、中東全域に広がりつつあります。これは、これまで長期独裁政権に軍事的支援を行い、原油などの資源を得てきた米国の帝国主義的外交政策の破たんでもあります。また、イスラエルが大きな影響を受けるのは確実です。さらに、昨年1月の任期切れ以降も居座り続けてきたアッバス議長率いるパレスチナ自治政府は、議長と評議会(国会)の選挙を9月までに実施すると発表しました。1月にアルジャジーラが、自治政府の資料を暴露したこともあり、ハマス派の議長に代わることは確実です。
昨年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の最終文書には、「イスラエルのNPT加盟と同国の核関連施設全てを国際原子力機関(IAEA)の査察下に置くことの重要性を確認した2000年決議を想起し、中東地域の全ての国家が非核国としてNPT参加を求める」「核兵器など大量破壊兵器が存在しない中東非核地帯をつくるため、地域の全ての国家が参加する会議を2012年に開催する」ことが盛り込まれました。
同じく、昨年開催されたIAEA理事会では、19年ぶりにイスラエルの核兵器が議題となりましたが、米国などの抵抗によって、具体的な議論に入ることはできませんでした。今後の米国や欧州、日本の対応が問われます。

パキスタンで広がる反米感情
 中東の変革は、米国のアフガニスタン戦略に影響が及ぶのは必至です。この戦略の失敗はいまや明らかですが、その余波でパキスタンの情勢も不安定さを増しています。現在、パキスタン政府は殺人容疑で逮捕された米国人の即時釈放を強く求める米政府と、釈放を拒否する警察との間で揺れ動いています。米議会からは釈放しなければ支援金75億ドルと、軍事支援20億ドルを凍結するとの主張が出ています。
パキスタン政府の対応如何で、一気に反米感情が吹き出る可能性があります。パキスタンで反米感情が広がっている原因の一つに、アフガン領内からパキスタンへ無人攻撃機が発進し、多くのパキスタン市民が殺傷されていることがあります。
しかしこの無人攻撃機が、米・ネバダ州にある、ネリス空軍基地から操作が行われていることはあまり知られていません。当初は無人偵察機だったプレデターが攻撃機に改造され、次々に新型が開発され、パキスタンを攻撃しています。ネリス空軍基地で、パイロット、カメラ操作のセンサー・オペレーター、情報収集官3人でパキスタンを攻撃し、市民が被害を受けているのです。

1103_44.JPG飛行中のプレデター(airforce-technology.comより)

軍拡を招く米での核関連予算増大
 今年2月5日、米ロ間で「戦略核兵器削減条約」(START-Ⅰ)の後継条約、「新START」が発効しましたが、この条約交渉の過程で、米ロ間の軍事戦略の違いが顕在化し、今後の重要な課題である非戦略(戦術)核弾頭削減交渉へ進むのはきわめて困難な状況となっています。
この軍縮交渉過程で、ロシアは米国のミサイル防衛(MD)と「即時グローバル打撃(PGS=Prompt Global Strike)」に強い警戒感を持ち続ける一方、米国はMDの展開やPGSの推進に新STARTが障害にならないかを警戒しているのです。
PGSとは、今では全世界を監視できるようになった衛星画像によって、1時間以内に世界のあらゆる場所をミサイル攻撃するというものです。通常兵器使用とされていますが、相手国からは核、非核の区別は困難であり、核戦争の引き金を引きかねません。
オバマ米政権は、核関連予算を増大し続けてきました。2月14日に、大統領は2012年度の予算教書を提出しました。オバマ政権では結局、核関連予算を増やし、軍拡を進めただけだったということになれば、世界に無力感が広がるだけです。
米国には包括的核実験禁止条約(CTBT)批准など重要な課題が残っています。こうした重要な課題の達成は、米国だけでなく世界の運動が監視を続けなければ実現しません。今後の私たちの運動の展開、そして日本政府の姿勢が問われています。


チェルノブイリ事故から25年
悲劇は今も終わらないまま

チェルノブイリ子ども基金 事務局長 佐々木 真理

 1986年4月26日、旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起きました。環境に放出された放射能は広島型原爆の500倍とも1,000倍とも言われ、人体・環境に多大な被害をもたらしました。事故から25年を経た現在の被災地の子どもたちの様子と、私たちの救援活動についてお伝えします。

病気は次世代の子どもにまで
 チェルノブイリ事故から数年後、被災地では小児甲状腺ガンが多発しました。発見が遅れたため命を落とした子どもたちもいました。子ども基金は設立当初、甲状腺ガンの子どもたちの支援を中心に活動を行いました。甲状腺手術後の患者に生涯必要となるホルモン剤などの医薬品や医療機器の支援、同時に子どもたちを現地サナトリウムでの転地療養に招待してきました。
この世代はすでに結婚をして子どもをもつ人が多くいます。幼少時に甲状腺ガンの手術を受けたインナさん(ウクライナ・キエフ市)は、妊娠すると医師から出産を諦めるように言われました。しかし彼女は無事出産しました。インナさんの子どもに今のところ大きな問題はありませんが、次の世代の子どもたちの中には、重い病気の子どもも少なくありません。
事故数年後に小児甲状腺ガンが多発したベラルーシ・ゴメリ州では今、次世代の子どもたちに、様々な腫瘍病が表れています。ゴメリ市の小児病院で働く看護士マリーナさんは言います。「チェルノブイリ事故の前には、病気の子どもはこんなに多くありませんでした。今は患者がいっぱいで病室が足りません。こんなことがいつまで続くのかと思うと恐ろしいです」。彼女の娘も甲状腺に異常があります。
現在、子ども基金は、このような次世代の子どもたちに対して、医薬品の援助を行うとともに、現地サナトリウムでの転地療養に招待しています。同じように病気をもつ子どもが集うこの転地療養では、それまで心を閉ざしていた子どもが「自分は一人ぼっちではない」と気づくことで、見違えるように明るくなります。それは病気を克服する力となっています。
2000年生まれのディーマさん(ゴメリ州カリンコヴィチ地区)は8歳のときに脳腫瘍の手術を受けました。手術後は左半身に麻痺が残り、リハビリを続けています。07年生まれのルスラン君(ゴメリ州ドーブルシ地区)は2歳で腎臓ガンの手術を受けました。父親はショックのため自殺、現在24歳の母親が一人で子どもを育てています(この女性の妹は、幼少時に白血病で亡くなっています)。01年生まれのアーニャさん(ゴメリ州レリチツァ地区)は腹膜の神経芽細胞腫と診断され、6歳のときに手術を受けました。1年後に退院しましたが、現在も定期検査が欠かせません。アーニャさんの暮らしている村のすぐ近くに、「放射能汚染により立ち入り禁止」という立て札のある森が広がっています。しかしそこには柵も監視所もなく、誰でも自由に入ることができてしまいます。その森でとれたキノコが町で売られたり、伐採した木が家庭用の燃料として使われたりしています。

 

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母親に抱かれるルスラン君(左)とアーニャさん(右)

公的援助打ち切りなど厳しい状況に
 発病した子どもが「チェルノブイリ事故障がい児」と認定されると、以前は医薬品や通院のための交通費が無料となり、また公共料金の減額などの援助がありました。しかし数年前からこのような援助は徐々に削減されたり、打ち切られたりしています。そのため収入の少ない家族の家計が圧迫されています。また、「高濃度放射線汚染地域」として人々が立ち退きをさせられた地区の中には、最近になって居住が認められるようになったり、農地としての利用が始まったりしているところもあります。病気の子どもを抱える家族はみんな言います。「子どもたちの病気はチェルノブイリのせいです。汚染された土地に住んだり、その土地の食べ物を食べたりしてはいけないことはわかっています。しかしここに住み、ここでとれたものを食べるしかないのです」。
一度原発事故が起きると取り返しのつかないことになってしまうことを、子どもたちは身を持って示しています。地震国日本に54基もの原発を抱える私たちにとって、チェルノブイリの悲劇は決して過去の出来事でも他人事でもありません。

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