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原水爆禁止世界大会 福島大会 基調提起(藤本泰成・大会事務局長)

2014年07月27日

原水爆禁止世界大会 福島大会 基調提起

 福島県は、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故から、4度目の夏を迎えています。事故の収束作業、そして、放射性物質での汚染地された故郷への帰還、被災者の補償と新しい生活へのスタート、全く進展のない中で、被災者の生活はきびしさを増しています。
福島の現実が変わらない中で、国は原発の再稼働を急いでいます。
6月16日、石原伸晃環境大臣は、福島第1原発事故の除染で出た汚染土などを保管する中間貯蔵施設を巡り、「最後は金目でしょう」という発言で、福島県民を始め多くの市民の批判を浴びました。
石原大臣は、「最後はお金の話になるが、今は示すことができないという話だ」「金で解決できるなんて一言も言ったことはない」と釈明しましたが、発言を撤回することも、自ら発言の責任を取ることもありませんでした。「金権政治」と言われ続けた、自民党政権の本質があらわになる発言です。どう弁明しようが、「金を積めば解決する」という考えに立った発言であることは否定できません。

政府は、原子力規制委員会で稼働に慎重であった島崎邦彦委員長代理を退け、東京電力の関連財団から報酬を受け取っていたとされる田中知(さとる)東大大学院教授に交代させるという人事を強行しました。原発再稼働に向けたなりふり構わぬ姿勢は、市民社会を愚弄するものです。
原子力規制庁が、「九州電力川内原発の新規制基準適合性に係る審査報告書案」を発表した翌々日、7月18日に、安倍首相は、九州の財界メンバーと会食し「川内原発はなんとかしますよ」と発言した報道されました。これら、私たち市民の思いを逆なでする発言や政治姿勢は、政権の「おごり」としかとれない、決して許されないものです。
原子力規制庁の田中俊介委員長は「規制基準を満たしているが、私は安全とは言わない」と発言しています。安倍首相は、過酷事故の検証を踏まえ「世界最高水準の安全性」を主張していますが、そのことを検証するはずの規制委員会の委員長が「安全とは言わない」としているのです。
米国の原発はその立地条件に「避難計画の策定」があります。そしてそれは、原発を運転する電力会社に義務づけられたものです。しかし、日本においては「避難計画」は、自治体の責任で策定されるもので、その策定自体、再稼働の条件とはなっていません。

今回の新規制基準では、過酷事故対策としてベントの設置が義務づけられました。原子炉の冷却が停止し炉内の圧力が上昇した場合、原子炉爆発を防ぐために蒸気を外に逃がし、圧力を下げるものです。つまり、これまでは炉内にとどまるとされた放射性物質を環境中に放出することになります。それなのに、なぜ、避難計画がセットにならないのでしょうか。そこには、実効性のある避難計画の策定が極めて困難であると言う事実、そして、地域住民の生命を軽視するこれまでの国の姿勢が見てとれます。

これまで、電力会社が原発の安全対策としてつぎ込んだ費用は、2兆円を超えています。また、稼働していない原発の維持費用も1兆円を超えるものです。これらが自然エネルギーの開発や推進の資金に注がれていたらと、忸怩たる思いに駆られます。電力料金の高騰は単に燃料費の問題だけでないことは明らかです。原発事故のあと、国が「脱原発」の方向性を決定できないことが、招来に与える影響は計り知れません。
中部電力は、原発推進のために、発注額を水増しし建設会社などから受け取った裏金を、政治資金として政治家に貫流させる政策をとっていたことが明らかになりました。その資金は「総括原価方式」という方法で、私たちから奪い取った、そう表現することが適切であろう、電気料金によるものです。これは犯罪以外の何ものでもありません。このような政官民の癒着構造が、新しい時代の構想力をそいでいることは間違いありません。

福島原発事故以降、福島県民の生活は、放射能の脅威と向き合うものとなっています。汚染された地域への帰還は、見通しが立ちません。福島県では、震災関連死が、直接震災で亡くなった方の数を上回っています。
困窮する生活を見透かす補償の切り捨てや、帰還の許容、放射線の影響の過小評価など政府の姿勢には、原発事故への責任を取ろうとする姿勢が見えません。
「原発の安全性は規制委員会の判断に委ねている。個々の再稼働は事業者の判断で決めること」という菅官房長官の発言を、「あくまでも新しい規制基準への適合審査」であり安全性の審査ではないとする規制委員会の主張と並べて考えると、原発再稼働に対する責任の所在を、あいまいにしようする政府の姿勢がはっきりとしています。
原水禁は、原発事故に対する国の責任は明確だと考えます。そのことを基本に据えて、福島の復興が、被災者への補償が図られなくてはなりません。

ノーベル賞作家で、「さようなら原発」の呼びかけ人である大江健三郎さんは、インタビューに答えて「戦後は明るかった」と述べ、それは日本国憲法の「民主主義」と「平和主義」による希望だったとしています。私たちは、この80歳にならんとする作家の言葉の、重さを受け止めねばなりません。
侵略戦争と植民地支配に明け暮れ、一人ひとりの命を省みなかった時代の、多くの犠牲の上にになり立った「戦後」そして「日本国憲法」が、何を私たちに与え、そして、何を私たちに求めているのか。フクシマは、今、そのことを私たちに訴えているのだと思います。
憲法13条は、「すべての国民は個人として尊重される」と規定しています。「人」ではない「人間」ではない、「個人」と言う言葉の重たい意味を、しっかりと受け止めなくてはなりません。
今朝の朝日新聞で、姜尚中聖学院大学学長が、100年前の夏目漱石の私の「個人主義」という講演での「国のモラルより個人のモラルの方が数段高い」と言う言葉をを紹介しています。これは、日中韓の現在の関係を強く意識しての引用ですが、私たちの生きる時代に、きわめて大切な示唆を与える言葉だと思います。

「国を守る」と言われ、310万余の命が失われた、いや、アジア全体では2000万人もの命が失われた、アジア・太平洋戦争。1931年の満州事変は、「満蒙は日本の生命線」とする権力の策謀によって始まり、最後は、東京大空襲、沖縄戦、そしてヒロシマ・ナガサキでの原子爆弾の悲劇で終わりました。
安倍首相は、「ホルムズ海峡は日本経済の死活的問題」として、集団的自衛権を行使し、機雷除去という国際法上の戦闘行為に手を染めようとしています。
「国を守る、日本の経済を守る」とする目的によって、いったい誰が命を失うのでしょうか。私は、「個人を守る、個人の命を守る」という考え方に立ちたいと考えます。
憲法13条は、国家主義による戦争の悲劇の反省にたって、そのことを「個人を守る」ことを、国家の基盤に置かなくてはならないと規定しているのだと思います。その「個人主義」は徹底されなくてはならないのです。

フクシマは、日本経済の基盤であるエネルギーの供給地として、「安全である」との要請の下で、心ならずも原子力発電所立地を引き受けました。しかし、日本のエネルギーを守ることで、多くの被災者を生み、故郷に戻ることのできない状況を生み出しました。「個人」が、国の犠牲になる意味で、戦争も原発も変わることはなかったのです。いま、私たちは「個人」とは何か、「個人主義」とは何かを徹底して議論しなくてはなりません。
個人の犠牲の上に、国家が成立することがあってはなりません。原水禁運動は、多くの犠牲の下に、私たちが学んだ歴史の教訓を、そのことを基本に据えた社会の実現をめざします。「一人ひとりの命に寄り添う社会と政治」この基本を忘れてはなりません。

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