坪井直さんご逝去にあたっての原水禁弔文
2021年10月29日
りこのたびの坪井直さんご逝去にあたり、原水禁は下記の弔文をお贈りしました。
弔 文
日本原水爆被害者団体協議会代表委員・広島県原爆被害者団体協議会理事長、坪井直さんご逝去の連絡を受け、核兵器廃絶・被爆者援護など、被爆者運動に一緒にとりくんできました原水禁関係者一同の哀しみはこのうえなく、誠に残念でなりません。
坪井さんは、米軍が広島に原爆を投下した1945年8月6日、広島工業専門学校(現在の広島大学工学部)の3年生でした。爆心地から約1.2kmの広島市富士見町(現在の中区)で被爆されました。ほぼ全身にやけどを負われ、御幸橋西詰め(中区)付近に避難され、小石で地面に「坪井はここに死す」と書かれたそうです。その後、広島湾沖の似島(南区)の野戦病院に収容され、お母様が見つけられ、呉市音戸町に連れて帰られましたが、同年9月25日まで意識が戻りませんでした。
その後、中学校の数学教員になられました。後障害の再生不良性貧血症やがんなどで入退院を繰り返し、危篤状態に3回陥りながらも奇跡的に回復されました。
1986年3月、安佐南区の城南中学校長を最後に定年退職された後、被爆者運動に関わられました。1994年に広島県原爆被害者団体協議会事務局長、2004年に同協議会理事長に就任されました。2000年からは、日本原水爆被害者団体協議会代表委員を務められました。2010年、核拡散防止条約(NPT)再検討会議にあわせて訪れた米・ニューヨークなど国内外で、被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴えてこられました。
坪井さんが生前に残された数々のご功績を顧みるにつけ、かけがえのない方を失った哀惜の念に堪えません。ここに改めて、原水禁を代表して、感謝を申し上げます。
「核と人類は共存できない」。原水禁は、ヒバクシャの救援、即ちヒバクシャの権利としての生命と生活をかちとる運動、さらにヒバクシャを再び出させない運動を進め、常にひとり一人のいのちの尊厳を基本に据えて、運動を展開してきました。今後も、ひとり一人のいのちをないがしろにする全ての政策に反対して、いのちの尊厳を守り、それを保証する核のない平和な世界の実現を基本に、闘いをすすめていきます。そのことこそが、私どもができる坪井さんのご恩に報いる道であると信じ、その決意を誓うものであります。
坪井直さんに、深い哀惜の思いを込めて心からのご冥福をお祈り申し上げます。
2021年10月27日
原水爆禁止日本国民会議
共同議長 川野浩一
金子哲夫
藤本泰成