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【ニュースペーパー2013年5月号】原水禁関連記事
2013年05月01日
進まぬ放射能汚染物の処理と問題点
宮城県護憲平和センター 事務局次長 菅原 晃悦
汚染された稲わらや牧草などの扱いに苦慮
生活環境への放射能の漏えいにより、被曝による「健康への悪影響」が心配され、漏れだした放射能を一刻も早く「生活環境から隔離」することが求められているが、事故から2年を経ても今だ、課題として残されたままである。
全国的には、震災廃棄物(ガレキ)の広域処理が問題として論議されていたが、宮城県の中では、放射能で汚染された大量の「農林業系副産物(稲わら、牧草、ほだ木など)」の扱いに苦慮している。仮置き場の選定をめぐっては、行政と住民の対立、地域内での意見の違いなどがあり、なかなか決まらず、避けられるはずの「外部被曝」を受け続けている。
今年に入り、県当局から「放射性物質汚染廃棄物等の保管状況及び処理の方向性」が示された。農林水産業系廃棄物に限って紹介すると、「稲わらについては、平均で8千ベクレル/Kgを超えており、指定廃棄物として国の責任で処分をしていただく」「牧草やほだ木については、8千ベクレル/Kg以下であり、『自治体の既存焼却炉』で、『一般廃棄物に混合して焼却』する」が主な内容である。農家などが保管に苦慮する放射能汚染物を、早期に生活環境から隔離するための苦肉の策と思われるが、少なくても、①「対策への不信」の増加、②放射能の「生活環境への拡散」、③放射能汚染物の「隔離に時間がかかる」などの問題がある。
行政への不信感がさらなる風評被害を招く
①の「対策への不信」については、「一般廃棄物と混焼し、焼却灰を8千ベクレル/Kg以下にする」という手法は、食べ物に例えれば、「規制値を超えた食材を、他の食材に少しずつ混合しクリアする」ということである。こうした処分方法を選択する宮城県への不信感は増し、さらなる風評被害を招く危険性もある。
②の「生活環境への拡散」については、いくら苦慮しようと、「拡散した放射能を濃縮して管理する」という基本は変わらない。混焼した焼却灰が8千ベクレル/Kg以下であっても、一般廃棄物と同様に「埋め立て処分」とするのは、生活環境から回収した放射能を、改めて「生活環境に拡散」するということである。原発内の焼却炉と同じような対策を施して、既存の「焼却炉」で焼却するとしても、一般廃棄物とは区分けして焼却し、放射能で汚染された焼却灰は「指定廃棄物」として国に責任を持って管理、処分させることが必要である。一般家庭で保管している焼却灰の管理の問題にも影響するのであり、指定廃棄物の管理、処分を国に急がせることが求められる。
③の「隔離に時間がかかる」については、牧草(4万1千トン)、ほだ木(2万9千トン)などの保管には、外部被曝の悪影響が看過できず一刻も早い処理が必要だ。しかし、「一般廃棄物との混焼」では、時間がかかりすぎる。国は、指定廃棄物については、「焼却できない場合、仮設焼却炉等を設置」としているが、放射能で汚染された「大量」の農林業系副産物にあっては8千ベクレル/Kg以下も含めて「指定廃棄物」とし、「焼却せずに管理、処理」をさせる。もしくは、健康管理を徹底した専門の事業者によって速やかに焼却処理をさせ、「焼却灰」を「指定廃棄物」として、国の責任で管理、処理させることが必要である。
国は汚染データや処理方法を隠すな
こうした対策を求めていく上で障害となっているのが、「最終処分場問題」である。被曝を低減させる上で欠かせない最終処分場建設が、国の隠ぺい体質などが大きく影響し進んでいないからである。
住民理解を得るために必要なのは、低線量でも「健康への悪影響はある」との啓蒙であり、「各種汚染物の詳細なデータ、処理を必要とする根拠や処理方法などの全体像を隠さずに公表」すること。そして、「全原発廃炉へ向けた工程を示す」ことだと考える。
オスロで「核兵器の人道的影響の国際会議」
高まる核廃絶への期待
NPO法人ピースデポ スタッフ 金 マリア
各国政府、国際機関、NGOが一堂に参加
3月4日から5日にかけて、オスロでノルウェー政府主催による「核兵器の人道的影響に関する国際会議」が開催され、127ヵ国の政府代表と国連、赤十字国際委員会(ICRC)等の国際機関、各国のNGOが参加しました。開催の背景には、2010年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の「最終文書」以降、昨年の2015年再検討会議・第1回準備委員会や、国連総会第1委員会における議論を通して、国際的に核軍縮の人道的側面に対する関心が高まってきたという経過があります。
筆者は市民社会代表団の一人として本会議に参加しました。第1セッションは、「核爆発による人間への直接的影響」、第2セッションは「より広範囲な、経済、発展及び環境への影響」、そして、第3セッションは「国家、国際機関、市民社会の準備体制」がテーマでした。開幕セッションで市民社会のメンバーが発表したビデオ声明は、約5分間場内を粛然とさせ、全員が会議に真剣に臨むことを促す役割を果たしました。
第1セッションの発表が終わると、田中煕巳日本被団協事務局長が証言を行いました。時間はごく限られたものでしたが、田中さんの生の声が与える響きは長く感じました。第2セッションでは、旧ソ連のセミパラチンスクでの核実験による被曝二世のカリプベク・クユコフさんが発表し、歴史の経験にも関わらず核実験を続ける国々に向かって警鐘を鳴らしました。第3セッションでは、発表者が一様に「核爆発が起こった場合、どの国も十分な対応は不可能」という結論を示し、核廃絶の正当性を明確にしました。
閉幕セッションでメキシコが「フォローアップ会議を主催する」と表明したとき、場内が驚きと喜びに沸きました。その後、主催国への感謝とメキシコによる次回会議の主催を歓迎するメッセージが続きました。
福島原発事故も教訓に討議
3月2日と3日にはNGO参加者による「ICAN市民社会フォーラム」が開かれ、約70ヵ国から500人余りの活動家が集まりました。第1セッションは「ビックバン!」というタイトルで、核兵器の科学的な原理や特徴、核兵器全面禁止の必要性と可能性について講演を聞きました。最後に、ノルウェーのグライ・ラーセン外務副大臣が登壇し、4日からの国際会議の議長として、同会議の意義や可能性などについて説明しました。また、市民社会フォーラムの両日、12時から2時半まではロビーで「マーケット・プレイス」が開かれ、参加者がランチのサンドイッチを食べながら、様々な活動を楽しみました。
閉会直後、成功を祝うノルウェーのアイデ外相(左から2人目)
と若い活動家たち(オスロ・3月5日)
第2セッション「破滅的な影響」では、実際に核兵器が使用されたときの被害について学びました。グリーンピースの放射線専門家リアナ・トゥールさんが「社会的な影響」ついて講演。福島原発事故の写真を見せながら、「コミュニティが放射能に汚染されたことによって、若者も自らの健康はもちろん、就職や結婚について心配している。また、政府や東京電力、あるいは国際団体からの情報が錯綜し、何を信じれば良いか分からず不安も多い」と、深刻な状況を伝えました。
第3セッション「条約の作成」では、核兵器禁止条約を作り出す方法を考えるために、クラスター爆弾禁止条約や対人地雷禁止条約、気候変動枠組み条約、そして武器貿易条約の交渉に関わった方々から学ぶ時間が持たれました。「実践!」というタイトルの第4セッションでは、新技術をキャンペーンに活用する方法などの新鮮なアイデアが提起されました。
その後、世界各地から来た10名の活動家が地元の活動を紹介しました。最後の夜には、オスロのシティーホールで「果たしてこの瞬間を忘れることができるか?」と題したコンサートが行われ、体中に染みわたる核兵器の恐怖と死の影が深い余韻を残しました。
今回のオスロ会議への期待は、当初は必ずしも高いものではありませんでした。しかし、127ヵ国の参加や、メキシコによる次回会議の主催表明など、予想を超える成果が得られました。市民社会と政府の緊密な協働、専門家の貢献、そして活動家の情熱が「人道」という正しい目的に基づいて一つになったとき、良い実が結ばれることが実感できた会議でした。
英国にプルトニウム処分委託?
原子力委員長代理の発言の背景
3月26日の原子力委員会定例会議で、鈴木達治郎委員長代理は、プルトニウムの「供給ありきという考え方からの転換」を促し、在庫量削減のために英国への所有権移動も含む「柔軟な利用計画」をと訴えました。英国は現在、海外の再処理顧客の28トンを含め、約112トンの民生用分離済みプルトニウムを保管しています。既契約分の処理を終える2018年までには、英国分だけで約100トンに達します。この処分のために、ウランと混ぜて「混合酸化物(MOX)」燃料を作る工場を新設し、同じく、新設予定の軽水炉でこの燃料を燃やすというのが英国の計画です(2015年までに経済的実現性が示されなければ、プルトニウムを廃棄物などと混ぜて地下に埋設処分する道も検討されます)。英国は、2011年12月、日本のプルトニウム約17トンも、同様の処分をしても良いと発表しました。お金を払って処分してもらってはというのが委員長代理の提案です。
英国政府は、2011年2月7日、プルトニウム処分計画の基本方針を発表し、5月10日までに得られた意見を集約して12月1日にほぼ同様の方針を発表しました。英国政府の発想を理解するため、2月の文書の一部を抜粋してみましょう。
英国プルトニウム管理計画予定表
高速増殖炉は予見できる将来には実現しない
「1950年代には、プルトニウムの分離は、軍事目的で行われた。1960年代には、化石燃料が枯渇すると考えられており、このプルトニウムを高速炉用に提供できると考えられた。なぜなら、高速炉は、いずれ、エネルギー問題への解決策となり得ると考えられていたからである。このため、高速炉に十分なプルトニウムができるようにするため、分離済みプルトニウムの蓄積量が、使用済み燃料の再処理によって増やされた。
しかし、最終的には、英国は1994年に高速増殖炉の研究のほとんどすべてを放棄した。予見できる将来に高速炉が商業的に実用可能となることはないことを理解したためである。我が国が蓄積したプルトニウムは、今も残っており、現在、高い安全・セキュリティー基準を充たすよう設計された施設で保管されている。しかし、今のところ、これを長期的にどう管理すべきかについての最終的計画は存在しない」
プルトニウムはセキュリティー・リスク
「2010年5月に開かれた『2010年核不拡散条約(NPT)再検討会議』は、いくつもの勧告について合意した。国際社会がこのようなステートメントについて合意したのは10年ぶりのことだった。合意には、核分裂性物質の管理に関するものも含まれていた。
これらの具体的な勧告は、プルトニウムなどの核分裂性物質のセキュリティーと核不拡散上の機微性[軍事転用可能性]の重要性を認識・再確認しており、この物質に関する英国の長期的戦略を策定するためのアップデートされた有力な基盤を提供している」
MOX利用は商業的オペレーションではない
「MOX燃料としてのプルトニウムの再利用は[埋設処分と比べ]ずっと成熟したオプションである。このため、米ロが『プルトニウム管理・処分協定』において、余剰兵器級プルトニウム管理用手段として採用しているのである。
~中略~MOX燃料は価値を持っている。プルトニウムをMOX燃料に転換するコストを相殺するのに、これを利用することができる。しかし、英国政府の現時点での予測は、現在のウラン価格においては、生み出される燃料の価値は、その製造にかかるコストより相当小さいだろうというものである。言い換えるなら、予見できる将来においては、MOXの製造は、主として、プルトニウムの在庫量を消費する道であって、それ自体が商業的なオペレーションではない」
論拠に挙げられた米国は計画を放棄
英国はこう考えてMOX利用方針を採用しましたが、米国のオバマ政権は、今年10月からの2014年度予算でMOX工場建設予算を大幅削減、2015年度にはゼロとする方針を示しています。英国でのMOX工場建設計画に影響を与える可能性があります。新しく建設される原子炉が何基になるのか、MOX利用を引き受けるのか否かも不明です。他のプルトニウム処分方法の検討が必要です。(田窪 雅文:ウェブサイト核情報主宰)
【映画評】福島六ヶ所未来への伝言 2013年/日本/島田恵監督
映画の予告編というのは、人々にその作品を観たいと思わせるための宣伝ツールであることは言うまでもない。しかし、短い予告編を観ただけで、その映像の力に圧倒されて、胸に熱いものがこみ上げるようなドキュメンタリー映画を、私の勉強不足もあるだろうが、多くは知らない。しかし、本作の予告編が短文投稿サイト「ツイッター」で紹介されているのを見つけ、真夜中にそれを再生したとき、私は眠い目をこすりながら、あふれるものを抑えることが出来なかった。
本作は、東京から六ヶ所村に移住し、12年間を過ごしたフォトジャーナリスト、島田恵さんの初監督作品。ある制作スタッフの方は、核燃料サイクル問題にゆれる六ヶ所村をファインダー越しに見つめ続けてきた島田監督こそ、「絶対に六ヶ所村の映画を撮るべき」と常々思っていたとのこと。それをいつか伝えるつもりだったというその方。監督の方から「手伝ってほしい」と切り出されたとき、言わなくても気持ちが通じていたと、うれしくなったそうだ。
制作中に東日本大震災・東京電力福島第一原発事故が発生。監督が六ヶ所村における核燃の問題を通じて訴え続けてきたことの一部が現実のものとなったとき、監督は完成に近づいていた本作の内容の変更を決断。予定より遅れて、今年2月に公開が始まった。
本作は、六ヶ所村の人々は「交付金欲しさに危険な施設を受け入れた」という見方に、事はそう単純ではなく、反対運動が潰され、親や兄弟が対立するような状況の中、人々はヒリヒリするような葛藤に苛まれてきて現在があることを教えてくれる。六ヶ所村で漁業を営む家族が、基準値を上回るセシウムが検出された魚を海へ捨てる場面では、上関原発の新規建設にゆれる山口県祝島のことも心をよぎった。
オープニングとエンディングで流れる加藤登紀子さんの歌声が、映像と相まって観る者の心に、「忘れないでほしい、知っていてほしい」と念押しするかのように響いてくる。放射能という負債を未来へ残さざるを得ない私たちの責任とは。全国で上映会が開催されることで、多くの人に観ていただきたい作品である。(阿部 浩一)