ニュース
【ニュースペーパー2013年2月号】原水禁関連記事
2013年02月01日
フクシマを防げなかった反省の上に新しい運動を
医師・チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西 振津 かつみさんに聞く
解散・総選挙で廃案となった「脱原発法案」
法案の再提出で国会での論戦を
【プロフィール】
広島・長崎の被爆者の健康管理、チェルノブイリ原発事故被災者への支援活動などを通じて、放射線の健康影響について学び、1991年に「チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西」を設立。毎年ベラルーシの汚染地域を訪問する。2004年から、「ウラン兵器禁止を求める国際連合」(ICBUW)評議員を務める。共編著に『ウラン兵器なき世界をめざして-ICBUWの挑戦-』(合同出版・08年)、共訳書に『戦争はいかに地球を破壊するか-最新兵器と生命の惑星』(緑風出版・05年)。昨年9月、日本人としては3人目となる「核のない未来賞」を受賞。
──「核のない未来賞」の受賞おめでとうございます。この賞はどのようなものでしょうか。
ありがとうございます。ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・JCOを経験した日本で、またチェルノブイリを経験した世界で、再び核被害を起こさせてはならないと活動してきたのに、フクシマの原発重大事故が起こる前に原発を止めることができなかった。このような、私たちの運動の現状を前にして、受賞を素直に喜べないという……複雑な気持ちがあります。
「核のない未来賞」はドイツに本部を置く「フランズモール財団」が創設した国際賞で、「将来世代のために核のない世界をめざす」活動に貢献した人々や団体に贈られ、「世界を変えていくのを促進しよう」という目的でつくられた賞です。これまで日本では広島市長であった秋葉忠利さん、写真家の樋口健二さんのお二人が受賞していました。
今回の受賞、原水禁世界大会などで来日されたこともある、私の尊敬するアメリカの反核科学者のロザリー・バーテルさんの推薦によるものです。彼女は昨年亡くなりました。推薦していただいた者としても、彼女の遺志を引き継いでゆかねばと思っています。
──核問題に関わるきっかけを教えてください。
医学生だった1980年頃、樋口健二さんなどの本を読んで、原発被曝労働者の存在を知ったことが問題にかかわるきっかけです。原発は下請け労働者の被曝労働がなければ絶対に動かないのです。私は医師になって、人々の健康をあずかる仕事に就くための勉強をしていたときでもあり、大きな衝撃をうけました。また当時は、総評労働者が各地の公開ヒアリング阻止闘争にも積極的に取り組んでいました。組織労働者を中心とする福島県「双葉地方原発反対同盟」と、大阪の科学者や阪南中央病院の医師らが協力して取り取組んでいた福島の下請け労働者の実態調査からも学びました。
医大卒業後、赴任した阪南中央病院で、ヒロシマ・ナガサキの被爆者の健康管理や実態調査に関わる中で、原爆被爆者の「こころ、からだ、くらし」の苦しみを知ることになりました。
──福島原発事故から2年になろうとしている現在の状況をどうご覧になられますか。
福島事故によって、今、約400万人もの人々が「放射線管理区域」レベルの汚染地域で暮らしています。地震国にもかかわらず、国策で原発を推進してきた結果起こったこの事故は明らかな人災です。国と東電の責任を厳しく問うてゆかなければなりません。
ヒロシマ・ナガサキやチェルノブイリを繰り返してはならない、「核と人類は共存できない」と、私たちは運動を進めてきました。それにもかかわらず、この日本で、多くの人々が被曝するような事態を起こしてしまったことの重大さ。私たち反核運動の側も、反省し、弱点を克服しなければなりません。しかし昨年末の衆議院選挙の結果を見ると、運動をとりまく状況も、まだまだ厳しいものがあります。
脱原発とフクシマの被災者の援護・連帯の課題は、私たちの運動の「車の両輪」として取り組んでいく必要があると思っています。原発推進のために、フクシマの被災者への援護が切り捨てられ、さらなるヒバクが押し付けられようとしているのです。フクシマの課題を、全国の運動の課題としても真剣に取り組まなければなりません。ヒロシマ・ナガサキと同じように、フクシマから全国そして世界に向けて発信し、運動を広げ、強め、「フクシマを核時代の終わりの始まりに」してゆかねばなりません。
月に一度、福島の医療機関などの依頼で健康相談に通っています。被災住民には「ただちに健康障害」は見られませんが、被曝による将来の健康リスクを下げるためにいかに被曝量を減らし、人々の健康と生活を守っていくのかが課題となっています。現地では問題が山積みです。しかし、何事もなかったかのように「復興」を強調する行政やマスコミの宣伝の中で、見えない放射能から子どもたちを守ろうと懸命に取り組んでいる人々が孤立していくような状況もあります。
放射線被曝は、どんなに低線量であっても線量に応じたリスクがある。つまり「しきい値」がないということは、ヒロシマ・ナガサキの被爆者のデータからもすでに明らかになっています。このことを、フクシマの被災者の今後の健康管理にも役立てるべきです。
事故を起こした国や東電の責任をしっかり追及していくことと同時に、放射線の健康影響を正しく人々に伝えることは、誤解や偏見に基づく差別を許さないためにも重要です。
──国内だけでなく世界の様々なヒバクシャに寄り添って運動を進められているようですが、どのようなきっかけがあったのでしょうか。
私が運動に参加し始めた「冷戦時代」の80年代には、米国による欧州への中距離核配備に反対し、欧州を中心に世界の反核運動が連帯し盛り上がりました。スリーマイルやそしてチェルノブイリ事故が起こり、反原発運動の国際交流も進みました。そんな中で二回の「核被害者世界大会」や「世界ウラン公聴会」などが開かれ、世界の核被害者の声が上がり始めました。そのような動きにも大きな影響を受けました。
私自身もチェルノブイリ事故や旧ソ連の核被害者などに接し、アメリカやオーストラリアなどの先住民のウラン採掘による核被害者とも出会い、被災地に足を運び、世界のヒバクシャとの連帯の活動が始まりました。そして植民地支配などの下で、社会的弱者に核被害が一方的に押しつけられていく構造があることも知りました。核の「軍事利用」も「平和利用」も、常に「差別と抑圧」の構造の上に成り立つものだということを知り、容認できないと思ったのです。
(静岡市・2011年3月1日)
──原水禁・平和フォーラムに対して期待することをお聞かせください。
いままさに正念場にきていると思います。これまで原水禁運動の担ってきたもの、また運動の財産をしっかり引きついでいくと同時に、フクシマを防げなかった運動の反省も必要ではないかと思います。運動の弱さを克服し、もう一度原点に還って、運動を強めていくことが必要ではないでしょうか。
特にフクシマでは、目に見えない放射能汚染と闘いながらの生活と活動を強いられている仲間の皆さんと連帯し、被災地での複雑で困難な状況をよく理解し、運動の具体的な支援もしながら、ともに進んでゆくことが求められています。「三つのホショウ」要求など被爆者援護法運動の経験や、世界のヒバクシャとの連帯運動の経験を活かしてゆくことも重要です。
事故を起こした国の責任を認めさせ、謝罪させ、原発推進をやめさせ、国家補償に基づく「原発被災者援護法」(健康手帳の交付、検診と医療の無料化、生活保障など)を求めていく、全国的な運動を展開すべきではないでしょうか。原水禁が、その運動の先頭に立って、しっかり取り組んで欲しいものです。私も皆さんとともに頑張りたいと思います。
〈インタビューを終えて〉
振津さんが強調されたのは、福島の現在の取り組みについてでした。「福島はこれからが重要なんです」と繰り返し述べられました。原水禁がこれからも福島の取り組みに役割を果たし、脱原発の闘いと福島への支援を両軸として展開して欲しいと訴えられました。「事故の風化」という問題ではなく、これからが現地福島での取り組みの本番であると。(道田 哲朗)
解散・総選挙で廃案となった「脱原発法案」
法案の再提出で国会での論戦を
多くの国会議員の賛同で法案提出
脱原発への様々な動きが盛り上がる中、昨年8月22日に平和フォーラム・原水禁も参加する「脱原発法制定全国ネットワーク」が立ち上がり、その中で「脱原発基本法案」が発表されました。市民が立案に関与し、そこに政党や議員の賛同を求めて、政党間の違いをまとめる中で、法案提出につなげていきました。
その結果、国民の生活が第一、社民党、新党きづな、減税日本、新党改革、新党大地・真民主の6会派(当時)の国会議員23名によって、通常国会の会期末の9月7日に国会に提出しました。その際、政権政党(当時)の民主党からも55名の議員が賛同し、みんなの党、みどりの風、無所属などの議員も含め、合計103名の国会議員が賛同議員に名を連ねました。
法案は、次の臨時国会で議論が交わされることが期待されましたが、衆議院の解散・総選挙となり、残念ながら議論もないまま廃案となってしまいました。
選挙の争点とならなかった脱原発
脱原発法制定全国ネットワークは、衆議院総選挙の候補者に脱原発法に賛成か否かを問う調査や、当選後に法案への賛成を約束する契約書を結ぶなど、選挙戦を側面から応援しました。しかし、12月16日の投票の結果は、自民党、公明党が3分の2以上の議席を確保するという、脱原発を進める側にとって大変厳しい結果となりました。
戦後最低の投票率を見てもわかるように、自民党の政策への積極的な支持で決まったものではなかったといえます。12政党が乱立し、争点となるべき脱原発や沖縄へのオスプレイ配備などの基地問題、環太平洋連携協定(TPP)といった課題は全国化せず、局地的課題に限定され、消費税導入もすでに主要政党間での既定路線となっており、争点にならないまま、民主党への失望だけが加速した結果になったといえます。
また、選挙直前まで政党の離合集散が続き、有権者がその主張を見極めることが困難となったこと、政党のマニフェストも民主党の政権公約の失望とともにその有効性を失ったことが、政党政治への不信感を生みだし、議論は深まらないまま終わった選挙でした。
一方で、これまで原発を強力に推し進めてきた自民党でさえ、真正面から原発推進を言う状況になかったことも確かです。それだけ、福島第一原発事故の影響は大きく、脱原発への世論の盛り上がりを無視できないところまで、推進派を追いつめていると見ることもできるのではないでしょうか。
(衆議院第1議員会館・2012年9月4日)
参議院選挙で脱原発派の拡大を
自民党が政権へ復帰した中で、民主党が進めてきた原子力政策の見直しは必至です。原発再稼働や新増設に対しても積極的に動くことが予想されます。核燃料サイクル政策についても、いま以上にテコ入れがなされる可能性が高いと思われます。総選挙の結果を踏まえ、市民運動の側では、今年7月の参議院選挙で脱原発勢力をどうやって増やすかという議論も始まっています。
脱原発基本法は、衆議院解散によって一旦廃案となりましたが、再度議論を国会内で展開するために、あきらめるわけにはいきません。むしろ、今こそ脱原発法が必要です。脱原発法制定全国ネットワークとしては、衆議院や参議院での法案提出をめざし、参議院選挙において原発政策を中心争点に押し上げ、脱原発勢力の拡大をめざしていく方針です。
当面、参議院での法案提出は10人以上の国会議員が必要となりますので、その人数の確保を図ることにしています。衆議院への提出は20名以上の国会議員が必要となりますので、現在の国会での議席状況では、厳しいものがありますが、状況に合わせて提出を図ることになっています。平和フォーラム・原水禁は引き続き、この取り組みに全面的に協力していきます。
脱原発国のもう一つの顔
ドイツは「乾式貯蔵先進国」
脱原発国ドイツは、原子力発電所の使用済み燃料の「乾式貯蔵先進国」でもあります。ドイツでは、炉から取り出し後、5年以上プールで冷やした使用済み燃料を「CASTOR V」という鋳鉄製容器に入れ、原発敷地内の貯蔵建屋で保管して、直接処分場の完成を待ちます。冷却は、空気の自然対流を利用します。CASTORは「放射性物質貯蔵・輸送兼用キャスク」という英語名の頭文字。Ⅴは、取り出し後5年を意味します。
敷地内乾式貯蔵を義務付けた社民と「緑」の政策
原発敷地内の乾式貯蔵は、1998年の選挙で登場した社会民主党(SPD)と90年連合・緑の党の連立政権が、2000年6月14日に電力業界との間で達した合意(翌年6月11日最終署名)に基づくものです。合意には①各原子炉の寿命を32年とする計算式による原子力の段階的廃止②2005年7月1日以降の使用済み燃料の英仏再処理工場への輸送禁止③ゴアレーベンでの最終処分場用探査作業の一時停止などとともに④使用済み燃料の各原発の敷地内あるいはその近傍での乾式貯蔵施設の建設(遅くとも5年以内に実現)が含まれていました。
中間貯蔵施設の建設が間に合わない5つの原発では、1~2ヵ月で建設可能な暫定貯蔵施設(5年間貯蔵可)の建設が認められました。コンクリートの箱に容器を1基ずつ横置きするこのモジュール方式が、福島第一原子力発電所の4基の原子炉の使用済み燃料を冷却プールから降ろすための作業の一貫として採用されることになったのは、本誌先月号で見たとおりです。
メルケル保守政権は、この合意に基づいて2002年4月22日に改正されていた原子力法を10年12月8日に再改正して原子炉の寿命延長を図った後、福島事故の後の11年8月6日に再々改正して、22年末までの原子力廃止を決め、脱原発を決定的なものにしたのです。
発端となったゴアレーベン再処理工場の議論
大量の使用済み燃料のプール保管は、テロなどで冷却材喪失事故が起きる可能性があり危険だという点が注目されたのは、ニーダーザクセン州ゴアレーベンの再処理工場建設計画を巡る議論の中でのことでした。同州のアルブレヒト首相(キリスト教民主同盟=CDU)は計画に関する国際的科学者の公開討論会を79年3月末から1週間にわたって開いた後、5月16日に出した建設許可拒否の声明で、工場の使用済み燃料受け入れプールの危険性を主要な理由の一つとして挙げました(プールの容量は六ヶ所と同じ3000トン)。後にバイエルン州で計画されたバッカースドルフ再処理工場では、受け入れ施設に乾式が採用されましたが、1989年4月、電力業界がコスト高を理由に計画を放棄し、ドイツの再処理は英仏委託だけとなりました。
推進役となったメルケル環境大臣
最終処分場、再処理工場、MOX燃料工場などを含むゴアレーベンの総合計画は変更され、再処理工場の受け入れプール施設は、乾式中間貯蔵施設へと姿を変えました。同じ70年代半ばに計画されたノルトライン・ヴェストファーレン州アーハウスのプール式中間貯蔵施設も乾式に変わりました。電力会社の共同設立会社GNS社がプール式では政府の要求する安全基準を満たせないと判断したためです。世界初の乾式輸送・貯蔵容器を開発し、再処理政策をとっていない国々での乾式貯蔵普及の先頭に立ったのもGNSです。
上述の2施設は現在、主にガラス固化体や特殊な炉の使用済み燃料などの中間貯蔵施設となっていますが、元々は大量の軽水炉の使用済み燃料の貯蔵もするはずでした。計画を変えさせたのは激しい輸送反対デモと輸送容器汚染発覚です。1998年5月、ドイツから英仏への使用済み燃料輸送用容器が両国への輸送時と、ドイツへの返還時に汚染されていたことが明らかになり、メルケル環境大臣(当時)が、英仏への輸送とこれら2施設への輸送を、改善策実施まで禁止すると発表しました。これが敷地内乾式貯蔵の発端となりました。例えば、3基のCASTOR Vをすでに敷地内に抱えていたネッカーヴェストハイム原発ではこのとき、いずれ輸送が再開されるとの前提の下に、暫定貯蔵施設の計画に着手しました。この後、9月の選挙の結果、社民・「緑」の連立政権が成立し、脱原発、再処理用輸送中止とセットの形で敷地内乾式貯蔵義務付けが決まったのです。