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【ニュースペーパー2012年8月号】原水禁関連記事
2012年07月31日
20年、30年先の子どもたちの将来のために
作家・さようなら原発1000万人署名呼びかけ人 澤地 久枝さんに聞く
17万人が参加「さようなら原発集会」開催される
再稼動を許さず、命を未来につなげよう
「さようなら原発」の声はつながる!
あきらめない信念でしっかりやり続けよう
被爆67周年原水爆禁止世界大会の課題
「核社会」を問う大会をめざそう
20年、30年先の子どもたちの将来のために
作家・さようなら原発1000万人署名呼びかけ人 澤地 久枝さんに聞く
【プロフィール】
1930年東京生まれ。4歳のときに家族で旧満州に移住。1945年、吉林で敗戦を迎え1年間の難民生活の後に日本に引き揚げる。49年に旧制向丘高女を卒業し、中央公論社に入社。働きながら早稲田大学に学ぶ。大学卒業後、『婦人公論』編集部で働く。63年に退社後、五味川純平の資料助手を経て、72年の「妻たちの二・二六事件」以後、本格的に執筆を開始。『火はわが胸中にあり』で第5回日本ノンフィクション賞、『昭和史のおんな』で第41回文藝春秋読者賞、『滄海よ眠れ』『記録 ミッドウェー海戦』で第34回菊池寛賞を受賞するなど、多分野の執筆を続ける。「九条の会」の発起人の一人として平和憲法を守る立場で講演も行う。福島第一原発事故を機に「さようなら原発1000万人署名」の呼びかけ人として活躍。座右の銘はアメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーの「苦しみの中に道は開かれた」。
──満州からの引き揚げなど苦労された経験から、今の日本の状況をどう思われますか。
私は14歳で敗戦を迎えましたが、そのとき、軍隊が住民を置き去りにして真っ先に逃げたのを見て、国家とはいいかげんなものだという不信感が残っています。それは今の政府に対しても同じです。昨年3月11日の東日本大震災のときに、私は世直しのときが来たと思いました。しかし、1年が経って、逆の方向に行っているのは、政治家が愚か過ぎるからではないでしょうか。それに対して反撃ができないのは私たち市民の弱さがあると思います。もう一度、みんなで考え直して、世直しを実行しなければ、地震も原発事故も何の教訓も残さなかったことになると思います。
──戦後すぐに女性がジャーナリスト、そして作家になるのは大変だったのではないですか。
私は18歳のときから5年間、働きながら、夜学に通うということを続けてきました。大学卒業とともに『婦人公論』編集部の記者となりました。当時としては前例のないことでした。とにかくジャーナリストの使命を考えて一所懸命に働きました。できることは全てやりましたが、そのために体を壊して働くことができなくなり退職しました。
会社を辞めてから五味川純平さん(作家)の資料助手になりました。10年間くらいは資料をひたすら読む生活をしてきました。あるとき、職場の同僚だった方に何か書かないかと言われたとき、歴史を語る場合、その表面に出てこないけれども、大きな役割を果たしてきた人がいる。その沈黙の中にあるものの意味は大きいと思い、それを書こうと考えたわけです。例えば、戦争では赤紙で徴兵された名もない兵士が一番多く死んでいるわけです。しかし、司令官や将官のことは書かれるけれど、こういう人のことを誰も知らないわけです。「二・二六事件」でも銃殺刑になった人のことは多く書かれても、その妻のことは誰も書かなかった。ミッドウェー海戦でも、深い海の底に沈む名もない人たちの記録を蘇らせたいと思って、日米双方の全戦没者を特定する作業をし、81年にコンピュータを導入してまとめました。
──沖縄にも行かれていますが、沖縄戦のことはどのように感じておられますか。
琉球大学で学ぶ機会があり、二学年間、沖縄で暮らしました。沖縄には、戦争で家族みんなが死んだ家があるわけです。本土に疎開していた人の話を聞くと、戦争が終わって沖縄に帰ってみると、何もない、真っ白な平べったい土地が広がっていたと言われました。沖縄では戦争で誰も亡くなっていない家族はないと言ってもいいほどです。
私は沖縄の人の気持ちがわかるとは言えません。実際にそれを経験した訳ではありませんから。沖縄は不当な仕打ちを長い間受けています。それをわかろうと思いますが、しかし、よくわかるとは決して言えません。それほど重いものがあるのだと思います。
──昨年の9月19日の「さようなら原発集会」は6万人もの方が参加されました。
あんなに多くの人がいる所で話をしたことは初めてでした。人々が自分たちの望みを実現するためには、自分が動き出さなくてはいけないということを思い始めた証だと思います。
この運動では女性の姿が目立ちます。実際にこの社会で力を持っているのは男性ではなく、女性だと思います。生活の実質を担っているからです。いま、子育てをしている母親が、子どもに何を食べさせたらいいかと悩んでいます。また、その祖母は戦争体験と重ね合わせて、政府はあてにならないと感じています。また、若い人たちもどんどん独自に運動を進めています。いま原発に反対する様々な市民の運動の底にあるのが、こうした女たちの思いではないでしょうか。
──原発を再稼働させる動きがあります。
日本の国土は、地下断層が複雑に通っている上にあるわけです。日本は原発を持てない地震列島です。そこに原発をつくっているという問題があります。最近特に大きな地震が続いています。これは自然の警告じゃないですか。しかし、原発推進の動きも露骨になっています。福島原発事故の真相究明が進まず、したがって「安全」の保証がないのに、原発の再稼働を決めるということは、政治が国民不在、無責任ということです。しかも、日本は原発の輸出国になろうとしています。つくづくこの国は堕落したと思います。政治家も官僚も誰も、責任を取らないというのはおかしいです。
6月15日に首相官邸に行き、藤村修官房長官に署名を渡しました。そうしたら、翌日には「大飯原発の再稼働の方向」と出ていました。署名をした750万人が見ているという意識がないようです。署名をしてくれた方々に申し訳ないという気になりました。
脱原発が達成できたら、政治は変わりますし、世界の中での日本の立ち位置が変わります。憲法は武力を持たないことを規定しています。核兵器も持たないということです。今改めて国の方向として定めることです。自衛隊から原爆、原発まで含めて変わることです。国のめざす方向性が問われています。
──これから脱原発へどうしていけばいいでしょうか。
3.11からずっと思っているのは、日本の政治は脱原発の方向へ舳先を変えなければならないということです。一人ひとりの「小さな人間」が心を決め、意思表示することで、政治は変わらざるを得ないのです。野田佳彦首相は原発再稼働の理由として「国民生活を犠牲にできない」と言いました。その例として、病院で人工呼吸をやっている人のことなどがあげられましたが、そういう患者がいるところは、あの地震の後、自家発電を持ったわけです。われわれは危機の防衛を始めています。首相の再稼働の理由には使えません。
まず、主権者である国民がしっかりするしかないと思います。たまたまヨーロッパに行ったときに、ブダペストで静かな国会風景を見ました。しかしその数日後、何万人もの人たちが国会を埋めるのを見ました。ギリシャでもイタリアでもあっという間に人々がスマートなデモをするのを見ました。許せないことに集まって抗議する政治的な風土を大切にするべきです。
6月から7月にかけての田舎芝居のような国会のカラ騒ぎ。国民の怒りも窮状も無視した政権亡者の集まりのような停滞ぶりでした。しかも「与野党の結束」で消費税値上げに踏み切ったのです。これほど政治の責任が問われ、有権者の怒りもふくれあがるときに、唯我独尊の野田首相に「あなたが手にしている権限の大きさ、責任の重さを考えよ」と言いたい。20年、30年先の日本の未来、子どもたちの将来を考えて決めるべきことであると、飽きずに言い続けます。
〈インタビューを終えて〉
インタビューを終えて、少しの疲労感と爽やかな思いをもって小雨降る道を帰りました。「沖縄をわかろうと思うが、決してわかったとは言えません。それほど重いものがあると思う」。誰も書かない、歴史の表舞台に立たない人間の、しかし大切な言葉を、地道で膨大な作業を繰り返しながら掘り起こしてきた澤地久枝という人の、心根を感じた言葉です。でもやはり、旧満州(中国東北部)から引き上げ苦労した人生を、わかったとは言えないのだろうと思います。素敵な時間をいただきました。ありがとうございます。(藤本 泰成)
17万人が参加「さようなら原発集会」開催される
再稼動を許さず、命を未来につなげよう
7月16日、脱原発運動では、日本ではこれまで最大規模の17万人が参加して「さようなら原発集会」が、東京・代々木公園で開かれました。猛暑にもかかわらず、会場には北海道から九州まで全国からの参加者、家族連れや団体、グループ、個人が、朝早くから続々と集まりました。
合意無き国策のもとに原発がつくられてきた
11時過ぎには早くも会場は参加者で埋め尽くされ、メインステージでは呼びかけ人などから訴えが相次ぎました。「たかが電気のために、なぜ命を危険にさらさなければならないのか」と音楽家の坂本龍一さんが批判。経済評論家の内橋克人さんも「合意なき国策の上に、日本中に原発がつくられてきたことに、はっきりと“さようなら”の声をあげよう」と語りました。さらに、作家の澤地久枝さんは「未来に続く命のために、私たちが今できることをやろう」と訴えました。
大飯原発の再稼働で私たちは侮辱された
大飯原発3号機の再稼動に対しても厳しい声があがりました。作家の大江健三郎さんは「750万人余の署名を政府に提出した直後に再稼働されてしまった。これは私たちが侮辱されているということだ」と怒りをあらわにし、作家の落合恵子さんも「野田首相が国民というとき一体誰を見ているのか。ここにいるのが国民、市民だ」と、再稼動を止めようと訴えました。
東京での「さようなら原発集会」に初めて参加した作家の瀬戸内寂聴さんは「悪いことはやめさせるよう政府に言い続けよう」と、90歳とは思えない元気な声で呼びかけました。さらに、大飯原発のある福井から中嶌哲演さん(福井県小浜市の明通寺の住職)が参加し「再稼働は死刑判決を受けたようなものだ。第2のフクシマにしてはならない」と訴えました。
原発ゼロシナリオを実現しよう
これからのエネルギー政策のあり方について、作家の鎌田慧さんは「絶対に原発をゼロにさせなければならない。そのために、政府にどんどん意見を言っていこう」と呼びかけました。会場内のブースでも、2030年の原発依存度に関するパブリックコメントの呼びかけが行われ、参加者は「原発ゼロシナリオ」を求めようと用紙に記入していました。
集会の最後に、昨年9月19日の「さようなら原発集会」のスピーチが感動を呼んだ武藤類子さん(ハイロ〈廃炉〉アクション福島原発40年実行委員会)が立ち、「絶望こそ希望だ、という言葉がある。声なき声をともにあげ、分断されることなく、ともに歩んでいこう」と力強く訴えました。
思い思いにアピールしたパレード行進
この他にも、三つのステージが設けられ、それぞれ関係者や全国、そして韓国からの参加者も含めてのトークやライブが行われました。集会と併行しながら、パレード行進が三つのコースに分かれて行われ、参加者は思い思いにプラカードや横断幕、うちわなどを掲げて、「原発反対!」「再稼動を許すな!」などとアピールしながら、元気よく行進しました。
「さようなら原発」の声はつながる!
あきらめない信念でしっかりやり続けよう
平和フォーラム・原水禁 事務局長 藤本 泰成
「生活者の肌感覚を蔑まない政治が、今こそほしい」7月17日付の朝日新聞の「天声人語」は「さようなら原発10万人集会」に触れて、そう締めくくりました。3.11東日本大震災と福島原発事故後、平和フォーラム・原水禁は「一人ひとりの命に寄り添う政治」をつくらなければと主張してきました。首相官邸を取り巻く市民の声を「大きな音」と表現した野田佳彦首相は、この言葉をどのように聞くのでしょうか。
「ゼロシナリオ」の選択に向けた取り組みを
政府のエネルギー・環境会議は、2030年に原発依存度0%の「ゼロシナリオ」、15%、そして20~25%の三つの選択肢を示し、8月末までに結論を出すとしています。現在、パブリックコメント(パブコメ)の意見募集と全国11都市での意見聴取会が開催されています。また、討論型世論調査も実施するとしています。
これまで電力会社の組織的対応から、多くの批判を受けてきたにもかかわらず、聴取会では、15日の仙台市で東北電力執行役員が、16日の名古屋市では中部電力の課長が原発推進の意見を表明し、批判が噴出しました。政府は、電力会社関係者を聴取会から排除することを決定しましたが、私たちはこのような「倫理」なき勢力と闘わざるを得ないのです。「さようなら原発1000万人アクション」の取り組みを継続してきた平和フォーラム・原水禁は、全力をあげて「ゼロシナリオ」の選択に向けて取り組みを進めなくてはなりません。
一方で、政府が未だ「核燃料サイクルシステム」つまり使用済み核燃料の再処理によるプルトニウム利用政策を放棄していません。原子力基本法に「我国の安全保障に資する」という文言が追加され、韓国などから非核三原則放棄、核兵器保有への道を開くと非難されるように、核抑止力保持の狙いがあると見られても仕方ないような政策は採るべきではありません。すでに破たんしているプルトニウム利用については、核兵器廃棄の立場からも放棄させなくてはなりません。
危険な活断層──再稼働の阻止へ
もう一つの重要なポイントは、福島原発事故以降、示されてきた「活断層」の新しい知見です。中越沖地震によって大きな被害を受けた柏崎刈羽原発やメジアンライン(中央構造線)やフォッサマグナ(中央地溝帯)などの上にある浜岡原発、伊方原発、川内原発などは論外として、大飯原発、敦賀原発、泊原発、志賀原発、島根原発、建設中の大間原発などで新しい活断層の問題が浮上しています。これは、今まで活断層の危険性が電力会社と政府や原子力安全・保安院などによって隠されてきた事実を如実に物語っています。
何が何でも大飯原発を再稼働させようとした関西電力は、活断層ではないと強弁していますが、この不遜な態度は、福島原発事故以前に大規模な津波を指摘されたにもかかわらず、一顧だにしなかった東京電力と共通するものです。良識ある研究者の皆さんとともに、科学的見地から再稼働を阻止していく闘いに取り組むことが重要です。
「脱原発基本法」の制定を
そのような取り組みを踏まえつつ、原子力発電からの脱却の道のりを法的に促進するために、脱原発基本法の制定も重要です。原発廃炉の費用と方法、原発立地県へは今後の経済対策や原発事故被害への対応、将来のエネルギー確保など、基本政策を法的な枠組みの中に押さえ込むことが必要であり、政権交代によって方針がぶれることの無いようしっかりとした位置づけが重要です。そのためにも、脱原発派の議員を結集する取り組みを続けなくてはなりません。
「さようなら原発1000万人アクション」は、6月15日に750万を超える署名を内閣総理大臣に提出しました。しかし、その翌日、政府は大飯原発の再稼働に踏み切りました。呼びかけ人の大江健三郎さんは「私らは侮辱の中に生きている。(中略)原発の恐怖と侮辱の外に出て自由に生きることを、皆さんを前にして心から信じる。しっかりやり続けましょう」と呼びかけました。
今、私たちには「あきらめない」という信念が必要です。正義は、私たちの側にあります。小さな声は、17万人の声につながりました。署名は780万を超えました。多くの市民が、全国でつながっています。「さようなら原発」の声でつながっています。
被爆67周年原水爆禁止世界大会の課題
「核社会」を問う大会をめざそう
昨年3月11日の東日本大震災は、各地に甚大な被害をもたらし、東京電力福島第一原子力発電所では、日本の原発史上最悪の事故を引き起こしました。これにより原発の「安全神話」は完全に崩れ去りました。事故による大量の放射能は、海・空・大地を汚染し、いまもなお多くの人々が故郷を奪われ、肉体的にも精神的にもさらに経済的にも多くの苦難を強いられています。あれから1年5ヵ月が過ぎようとする中で、今年の被爆67周年原水爆禁止世界大会が開かれます。今年の大会は、7月28日の福島大会から、広島大会、長崎大会(8月4日~9日)と続いていきます。
私たちはこれまで、原水禁世界大会で「核と人類は共存できない」と、繰り返し訴えてきました。その理念は変わらず、今年の大会でも反核・脱原発・ヒバクシャ連帯を基本に「核社会」がもたらす闇を告発していきます。
原発に頼らないエネルギー政策の展開
5月5日には全原発停止という歴史的な日を迎え、原発がなくても日本の電気は足りることを示しました。しかし大飯原発の再稼働など、原発推進派はその生き残りを賭けて動きを強めています。今年の大会は、原発問題に重点を置き、分科会を増やしました。特に収束の見通しが立たない福島原発事故の現状や志賀原発、大飯原発の断層問題も浮上し、地震と原発の問題、原発に頼らないエネルギー政策の展開など、様々な角度から専門家の意見や現地報告を受けます。上関原発問題で祝島へのフィールドワーク、さらに福島大会でも被災地訪問などが組まれています。
8月は政府のエネルギー・環境会議が今後のエネルギー政策で原発の占める割合を「20~25%」、「15%」、「0%」を問う聴取会やパブリックコメントを求めています。圧倒的な「0%」の声を集中することが重要となっています。原発がなくてもこの夏を乗り切ることができれば、新エネルギーの拡大とあいまって今後のエネルギー政策の中で、原発の存在理由がますます薄くなることは明らかです。脱原発の進むドイツから緑の党の国会議員を招へいし、ドイツの現状を報告していただき、その取り組みを学びます。7月16日の「さようなら原発10万人集会」には、17万人が結集しました。その思いを大会にもつなげます。
東北アジアの平和と安定に向けて
今年4月、北大西洋条約機構(NATO)の外相・国防相会議は、オバマ米大統領の「核なき世界」の声明や「核態勢の見直し」に呼応して、核兵器非保有国に対して核兵器を使用しない「消極的安全保障」の導入を決めました。米ロの核兵器削減交渉の進展次第では、射程の短い戦術核の削減の用意があることも表明されています。今後、イランでのウラン濃縮問題や北朝鮮の核開発問題などの解決を含めて、核兵器廃絶の動きを加速させなくてはなりません。被爆国日本が、核兵器廃絶、特に東北アジアの非核地帯構築に向けて、イニシアチブを発揮していくことが重要であり、その意味で国内の反核運動の責任は大きいと言えます。
今年の大会では、東北アジアの平和と安定に向けた取り組みについて議論を深めます。東北アジアの非核地帯化の推進やオスプレイ配備反対、沖縄の基地強化反対などの課題を深めていきます。
ヒバクシャ課題の前進を
ヒバクシャの課題は、福島原発事故で新たな局面を迎えました。広範囲に拡がった放射能は、各地に様々な被害をもたらしました。ヒロシマ・ナガサキ、そしてビキニ、JCOと続いた核被害の歴史に新たな被害が付け加わりました。
高齢化するヒロシマ・ナガサキのヒバクシャの残された課題の解決と、福島原発事故による被曝の問題を中心に議論を深めます。特に被爆体験者や在外被爆者、被爆二世・三世の問題を取り上げます。さらに世界のヒバクシャとの連帯ではチェルノブイリ原発事故のヒバクシャで支援活動をされている方もお招きし、経験を交流します。
民・自・公が原子力基本法を改定
保守派の日本核武装への執念
ほとんど審議されることなく改正
原子力基本法の「第2条」に、「原子力の研究、開発、利用は、平和目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」と書かれています。これは1954年に政府が強引に原子力開発を進めようとした際、日本学術会議第17回総会が大論争の末、「民主・自主・公開」の原子力3原則を声明として発表し、それを政府が基本法第2条に反映したものです。
ところが民主・自民・公明の3党協議の中で、突如として原子力基本法「第2条第2項」に「安全保障に資することを目的として」が加えられ、ほとんど審議されることなく6月20日に成立してしまいました。日本の保守派にとっては、日本の核武装への一つのハードルが取り払われたとも言えます。
日本核武装への技術的、社会的問題は?
現在の核兵器は「ブースター爆弾」と呼ばれるタイプが主流で、全ての核保有国は、このタイプの弾頭を保有しています。北朝鮮も同じタイプを追求していると言われます(詳しくは「原水禁世界大会・討議資料」を参照)。中空のプルトニウム(もしくはウラン)の球体の内部に重水素、三重水素を注入し、核分裂→核融合→核分裂というプロセスを経ます。水素爆弾と同じプロセスですが、ブースター爆弾の特徴は、プルトニウムの球体を大きくしたり、小さくしたりすることで、爆発威力を1キロトン(広島原爆の16分の1)程度からメガトン級まで様々な核爆弾製造が可能だということです。
ブースター爆弾の仕組みは、米国がマンハッタン計画で原子爆弾を製造する過程で見つけ出されたもので、マンハッタン計画の研究者の一人、エドワード・テラーが特許申請しています。
米軍は1960年代に太平洋でブースター爆弾の実験を行ったらしいことが、リチャード・ローズの「原爆から水爆へ」(原題:Dark Sun・2001年)に書かれています。リチャード・ローズは「原子爆弾の誕生」で1988年にピューリッツァー賞を受賞していますが、核兵器情報の厳しい米国で、可能な限りわかりやすく書かれていて、翻訳も優れています。
日本が核武装へ進む場合も、当然ブースター爆弾と考えられ、プルトニウムを原材料にすると、原子炉級も可能で、技術的な問題も一定の時間をかければ可能と考えられます。しかし核兵器保有の目的は主要には戦争抑止ですから、保有していることを世界に知らせる必要があり、そのためには核実験が不可欠です。イスラエルだけは特殊ですが、後に核兵器保有を様々な形でリークしていきます。
では日本に核実験場は存在するのか。多くの核武装論者も、この点に触れていませんが、国民感情や国際的環境からも、核実験場は存在しないと言えます。さらに米国のアジア・太平洋での軍事戦略は、日本の補完的参加が不可欠になっていて、つまり日本も米軍の戦力に頼らなければ、アジアで政治的影響力は維持できない状況にあるのです。米国は日本の核武装に一貫して強い警戒感を抱いていて、日本の核武装を容認することは考えられません。
核武装につながる核燃料サイクル政策
1968年1月30日の施政演説で佐藤栄作首相は、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の「非核3原則」を表明しましたが、核武装問題が日本で本格的に論じられるようになるのもその頃です。すでに核拡散防止条約(NPT)は63年に国連で可決されており、68年には62ヵ国が署名。日本に対しても署名・批准の圧力が増していました。日本は70年2月に署名しましたが、条約を国会で批准するのは76年6月になってからです(NPT自体は70年3月に発効)。
佐藤内閣は、外務省内に非公式の「外交政策委員会」を68年に発足させ、「わが国の外交政策」という報告書を作成しました。それには、「核政策についてはNPTに参加するか否かにかかわらず、当面核兵器を保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に維持するとともに、これに対する掣肘は受けないよう配慮する」と書かれています。これは外務省の核武装オプションの維持というよりも、日本の保守派が守り続けたいオプションであり、それにつながる核燃料サイクル政策も維持したいことが理由なのです。私たちにとって、脱原発と核兵器廃絶の運動は、ますます切り離せなくなってきていると言えます。