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【ニュースペーパー10月号】ドイツ・ポツダムに原爆追悼記念碑が完成
2010年10月01日
広島県原水禁常任理事 金子 哲夫
2010年7月25日午前11時。1945年7月に連合国が、日本に降伏を勧告する宣言を発したポツダム会談に参加したトルーマン元米大統領が宿泊していた建物前の広場で、原爆で犠牲となった広島、長崎の人々を追悼し、核兵器のない世界を祈念する碑の除幕式が開催されました。会場には、主催者の予想を上回る400人あまりの市民が集まり、広島、長崎両市長からもメッセージが送られました。
「碑に広島・長崎の被爆石を」の願い実現
ドイツ・ポツダム市議会は、平和市長会議へ加盟したことを機に2005年12月、原爆投下の命令が出されたとき、トルーマン元大統領が滞在していた邸宅(現在もトルーマンハウスとして現存)の前の広場を「ヒロシマ広場」と命名することを決議しました。
そして06年から当地への記念碑建立のためのカンパ活動が始まり、翌07年7月に市民によって「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」が結成されたのです。そして、被爆65年目である今年7月25日の完成をめざして活動が進められ、ついに完成を見ることができました。日本でもドイツからの呼びかけに応えて、08年7月に「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会広島」がつくられ、日本国内でのカンパ活動が開始されたのでした。
記念碑の設計・作成は、ノルウェーを中心に活動する石彫家・藤原信さんの手によって行われました。当初、ノルウェーの石のみで作成することが構想されていましたが、広島、長崎の被爆石も使用してほしいという私の思いを伝え、実現することとなりました。広島からは広島電鉄の路面電車の敷石が、長崎からは山王神社境内の石を、関係者のご好意により送っていただくことができました。
記念碑は、ノルウェーから運ばれた36トンの石と、広島、長崎の被爆石が乗る銘板が刻まれた石でつくられています。こうしたモニュメントに広島、長崎の被爆石が一緒に使われることは、初めてのことではないかと思っています。
記念碑には三ヵ国語で原爆廃絶誓う
式典で、広島の被爆者でドイツ在住の外林秀人さん(81歳)が、「原子爆弾の歴史の中で、ポツダムは大きな役割を果たしています」とドイツと核開発の関わりに触れるとともに「広島、長崎の被爆石は被爆者(の声そのもの)で、次のメッセージを持ってきました。核兵器は、人類史上で最悪の兵器。原爆の結果を忘れてはいけません。忘れるとまた再び起こります。……原爆のない世界を祈念します」というあいさつをされ、特に印象に残るものでした。記念碑には、ドイツ語、英語、日本語の三ヵ国語で以下の碑文が刻まれています。
「1945年8月6日と8月9日に/広島と長崎の投下された原爆によって/犠牲となった人々を追悼して/連合国によるポツダム会談が/1945年7月17日から8月2日まで行われ/その間、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が/正面にある邸宅に滞在していた。/1945年7月25日/アメリカ大統領の同意の下/ワシントンからの軍の原爆投下指令が下された。/原爆の破壊力は、数十万の人々を死に追いやり/人々に計り知れない苦しみをもたらした/核兵器のない世界を願って/上に埋め込まれた石のうち/左が長崎から、右が広島からきた石です/石はあの日、原爆によって被爆しました/現在はもう危険はありません」
広島・長崎の被爆石も使われた記念碑(7月25日・ポツダム市)
論争がその存在を広める役割果たす
この碑の建設をめぐって、ポツダム在住米国人から「原爆投下は戦争終結の重要な役割を果たした」「日本人は、広島の悲劇を訴えることで、自らを犠牲者としている」などとする反対意見が出ており、碑建立後も論争が続いています。しかしポツダム市は、「碑建立は、原爆廃絶の呼びかけであり、戦争犯罪の追及から日本人を逃れさせる意図はない」としています。こうした論争が、ある意味で記念碑の存在を広める役割を果たし、ドイツ人の関心を呼ぶ結果にもなったようです。
最後に様々なかたちでご協力いただいた原水禁の皆さんに心から感謝し、報告とします。