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【発言録】原発いらない!3・11福島県民大集会
2012年03月11日
原発いらない!3・11福島県民大集会
2012.3.11 福島県郡山市開成山野球場
●この3・11は決して忘れてはならない特別な日
竹中 柳一さん(大会実行委員長)
原発いらない!3・11福島県民大集会に県内各地から、そして全国から私たちの思いを受け止めようと駆けつけて下さいました皆さん、本当にありがとうございます。私たちにとって、この3・11は決して忘れてはならない特別な日になっています。地震・津波、多くの人々が命と財産を失いました。その事に加え私達は、原子力発電所の事故とその結果拡散した放射性物質により、今なお不安と苦しみの中で生活しています。私達は多くの物を失いつつあります。豊かな恵みをもたらしてくれた水田や畑、そして自然の全てが放射性物質によって汚染されました。多くの県民が自然豊かな故郷から追われました。そして多くの子どもたちが、赤ん坊、幼児を含め県外に転校、避難しました。数々の災害や戦争、多くの困難を克服し、現在の豊かな暮らしを、豊かな暮らしの基礎を築いてくれた先人たちの尊い努力が、放射性物質により失われようとしています。そして同時に、福島県の将来を担う子どもたちや若い世代を失おうとしています。3月11日が、再び巡ってきました。この日だからこそ、現在の私たちの苦しい状況をお互いの共有しながら今後について思いと決意を新たにすべきだと考え、この集会を企画しました。この集会が福島とそして日本の新しい変革のスタートとなる事を願い開会を宣言いたします。
●「原発いらない」の声は痛恨の思いを込めた県民の叫び
清水 修二さん(大会呼びかけ人代表)
3月11日が再び巡ってきました。一年前のあの頃と同じように、今日は寒い日となりました。あの日いつも通りの平穏無事な日常が一瞬にして一変し福島は、そして私たちは最早それ以前と同じように生きることはできなくなりました。津波で肉親を失い、家を失い今なお古里に戻ることも身内の遺体を捜すことも叶わぬ人々がいます。
地震や津波を免れたにも関わらず、放射能のため古里の山野を後にして避難を余儀なくされている人がいます。避難の中で尊い命を落としたお年寄りもたくさんいます。母親は子どもたちの将来に、言いようのない不安を抱いています。
家族や地域がバラバラになり、人々の絆が至るところで断ち切られる事態が生じています。農家は生産の喜びを奪われています。地方自治体は存亡の危機に瀕しています。一見すると、町は平穏無事でいつもの風景が目に映ります。しかし、よく見ると子どもの姿が見えません。福島県の人口は一気にそして現在もなお、ジワジワと減り続けています。復興のかけ声は高く上がっていますが、足下の除染さえ遅々として進みません。避難生活が長引くに従って古里に戻る気力は萎えていきます。これまで原発の危険性に警鐘を鳴らしてきた人ですら、こんな悪夢のような事態の出現をどれだけリアルに想像し得たでしょうか。
3月11日、この日は亡くなった多くの人々の霊を慰める鎮魂の日です。しかし、福島では災害は今も進行中です。目に見えない放射能と言う敵に包囲されて私たちは今だ、魂を静めるゆとりを持つことができません。福島で今何が起こっているか、本当のことは、未だ多くの日本国民に理解されていないと思います。
放射能でバタバタ人が死んでいるわけではないし、人心の分断と言った社会現象は、放射能と同じように目に見えないからです。原発という物がまかり間違えば、国の破滅にすら繋がりかねない巨大な危険性をはらむものであることを、今度の事故は私たちにハッキリと示しました。世界有数の災害国である日本が、50基を超える原発を運転してきたことがどんなに無謀で異常なことであったか、福島の私たちは身をもって知らされました。
福島県は原発に依存しない社会を作ることを宣言しました。けれども、その声はまだまだ日本の隅々にまで届いてはいません。それどころか、電力不足や地域経済の打撃を理由にした再稼働の動きが、急速に高まって行く気配があります。今日、ここ郡山だけでなく県内各地で様々な集会が行われています。場所は離れていても県民の気持ちは一つです。「原発いらない」の声は痛恨の思いを込めた福島県民の叫びです。この叫び声を全国の心ある人々の耳に届けるのは福島県民の使命であり義務であると思います。
今日のこの集会が私たちの、そうした決意を固める意義深い集会となることを願っています。本日は本当に多数の皆さんにおいでいただきました。全国からたくさんの方が参加しておられます。本当にありがとうございました。心から感謝致します。共に前進しましょう。
●子どもたちの大きい歓声が響くだろうということを、私は想像します
大江 健三郎さん(「さようなら原発1000万人アクション」呼びかけ人)
今日の集会は、大きい困難を乗り越えていられる、乗り越えられない悲しみを見舞われていられる方が集まられた集会であります。その福島の人たちが中心になられた会だと言うのを承知しています。しかし今、清水先生がお話になったことを聞いておりまして、本当にこの集会の意味と強い感情、深い倫理観、そういうものがしみじみ伝わって参りまして、ここに参加させていただいてありがたいと存じております。私は東京から参加させていただいた、大江健三郎であります。私は、7分間お話しする時間をいただいていますが、もうマイクの都合で3分使ってしまいました。できるだけ長くならないように致します。
原子力発電所をどうしなければならないかと言うことについて、私の考えを申しますが、元よりこの1年前の今日、津波で亡くなられた方たちへの思いと言うものを入れながら、その2つのことが繋がっていると思いつつ、お話しすると言うことを受け止め願えればと思います。この1年間、信頼する学者たちの分析と批判とを注意深く読んで参りました。そして原子力発電は人類が初めてやっていることだが、その理論こそ明確でも技術的に完全にコントロールされてはいなかった。特に地震への配慮は、この活断層だらけの国で学者たちの警鐘がよく生かされていなかったと言うことを学びました。非常に恐ろしい思いで再認識しました。
3・11の後も、その原発の再稼働を考える人たちがずっといます。そして今、現に彼らの大きい運動が始まっています。その中でもうすでに再稼働しても良いという許可を出した学者たちの集まりがあります。どうもその集まりの中の学者たちが、日本にあるいくつもの原発の地盤が、実は活断層の上にかかっていることを報告して、警告しているにも関わらず、それを無視されていたということを告発しておられます。ところが、その責任ある学者が、今も原発の再稼働を決める中におられるということを、極めてこう言う知識をみんなのものにしなければならない、反対しなければならない。そして、改めて大事故が起これば今現在を生きる私らのみならず、未来社会に向けて生きる人間皆に、子どもたちが中心です、大きく長い期間の影響のあることを思い知りました。
正直に言えば、私は力を落としておりました。でもドイツで行われた原発を全廃しようと言う委員会の答申があった。それをドイツの国会が承認した。そしてドイツ全体の動きが原発廃止に至ったということを、メルケル首相について私どもは知ったわけでありますが、この原発をどうするかと言うことを、最初に議論した集まりの名前は倫理委員会、すなわち、まず政治的な理由、或いは経済的理由よりも優先して、倫理的な理由ということを考える人たちがいる。その人たちが作った動きが、今度のドイツの原発廃止の結果になったと言うことであります。
私は、日本人も倫理と言うことを考える人間だった。モラルとか考えることをしてきた。しかしどういうわけか、あのバブルの頃から倫理的という言葉をあまり使わなくなった。バブルで騒いでいる人に、それは倫理的でないんじゃないか、というようなことはなかった。すなわち、私は倫理的な責任を取るということが、人間のいちばん根本的なことでなければならないと考えています。そして、倫理的な責任ということは、この世界で人が人間的に生きることを妨げるような行動を取ってはならないということです。
人類は過ちを犯しましたが、本当に倫理的でないことが行われてきたんですが、しかし大筋ではこの責任を取って生き続けてきた。それが、人類が「生き続けたきた」ということだと思います。しかし、あと1度2度、原発で大事故が起きれば、私らは将来の人間に向けて彼らが人間らしく生活していく場所を取っていくという、すなわち倫理的な責任において、その責任が取れないということであります。
そして、私どもは将来の人間について考えますけど、今、現に生きている私らの、自分自身についても不安を感じています。それが私たちから、今、現にいる場所ということではないでしょうか。私が力を落としたと、先ほど言いましたのは本当であります。しかし、その後は立ち直ってきているように思います。現に私は、このように多くの人たちの前で、原稿を読んだりする勇気があまりない人間です。ところが今、平気で市民の集会とデモに加わって、私は力を与えられてきました。そして、私たちに求められているものは何か。私たちが必要とされているものは何か、というと原発の事故を絶対に無くすることです。ところが、絶対にやると言うことができるのか、という問いかけがあるかも知れません。それはできます。この国の原発を全て廃止すれば。
私たちが、或いは私たちの子どもが、そのまた子どもたちが、原発の事故により大きい放射能の害を被るというようなことは絶対にないわけです。それは現にドイツで行われています。イタリアでもやろうとしています。それを私たちがやらなければならないと思います。原発からの電気が無くなれば、私たちの生活はどうなるかとすでに政府が、産業界が、またマスコミの一部が脅迫しています。しかし私らは、政治的な責任よりも経済的な責任よりも、国防的な責任すらよりも人間が将来、人間らしく生きていけるかどうかということの、すなわち倫理的責任を重んじると言い返すことができます。市民生活に負担、そういうことを民主主義的に担えばいいのであります。
民主主義と更に言いますのは、日本の電力会社が全く民主主義的ではないからであります。そして今こそ、私たちが起きている危機、民主主義において一人一人がどのように抵抗するか、どのような新しい電気の道を開くか、或いは電気の運搬について配分について。現に、ここにいらっしゃる方たちが昨年の夏、自分たちで節電して、あの電力の危機と言われたものを乗り切った人たちじゃありませんか。それを今年も来年も続けていけばいい、ということであろうと思います。
さて、もう時間がなくなりましたので。私どもが東京で大きい集会(2011年9月19日の明治公園集会)を開催しました。そこで、ジョン・レノンのイマジンという「想像しましょう」という詩のことを言われました。私は小説家で「想像力」ということを、いつも言っていまして、「想像力バカ」とも言われている人間でありますので、この言葉が身に染みるんですが、一つ想像することがあるんです。それは近い将来のある日、ある朝、この国の全ての小学校、全ての中学校、全ての高校で校庭に生徒たちが集まる。そして、先生が或いは生徒代表がこういうことを告げることになる。「皆さん、この国は原発を全廃する事を昨日決意しました」。それが私たちの将来です。私たちの未来に原発事故の不安はもうありません。そして子どもたちの大きい歓声が上がるということを、その歓声が響くだろうということを、私は想像します。それを実現させましょう。
●福島が好きだという気持ちは変わらない
管野 智子さん(県外に子どもと避難中)
私は、小学1年と3年の子どもを持つ母親です。3・11原発事故を境に、目に見えない放射能が降り注ぎ、放射線量の高い地域から遠ざかっても、自身やわが子がすでに被曝し、いずれ影響が体に現れるのではないか、という不安がつきまとっていました。毎日毎日、否応なく迫られる決断、「逃げる、逃げない」「食べる、食べない」「洗濯物を外に干す、干さない」「子どもにマスクをさせる、させない」など様々な苦渋の選択をしなければなりませんでした。
子どもたちは前のように自由に外遊びができません。学校の校庭で運動もできない、運動会もプールも中止。子どものことを日に日に考えるようになってきました。そこで私達家族は、10年後に後悔したくないという思いから、子どもの夏休みを機に、福島市から山形県米沢市に同居しているお姑さんと子ども2人と私の4人で自主避難しました。
現在は借り上げ住宅に住んでいますが、避難生活は経済的な負担があり、二重生活や住宅ローンも重くのしかかります。仕事の都合で家計を支える父親は、地元福島市を離れられず、週末だけ子どもに会いに来ています。そして私は、精神障害者の施設で色々な支援に携わっている仕事をしていますので、米沢市から福島まで毎日通勤しています。子どもたちは、区域外通学ということで、2学期から米沢市の小学校に転校しました。福島から来たこと、運動着の色が違うことで、いじめに遭うのではないかと心配しましたが、1学期からすでに福島からの転校生がいること、いじめの事実もなく、2学期からの転校生が10数名おりました。学校の先生やお友達に暖かく迎え入れられ、お友達もあっという間にできて、遊びに行ったり来たりしています。外で思い切り遊ぶこともできます。
米沢は雪が多く、スキーの授業も生まれて初めての経験でしたが、「楽しい、滑れるようになった」と嬉しそうに話してくれます。中には学校や環境になじめず、福島に戻られた方もおります。子どもたちは不満も言わず、元気に過ごしていますが、子どもの心の叫びは「原発がなければ福島から米沢に来ることもなかったし、福島の友達と遊べた」「米沢はマスクもいらない、放射能を気にする事なく外で遊べる、でも福島の方が楽しかった」。時折淋しそうな顔をします。私たちは、福島第一原子力発電所の事故がなければ、福島を離れることはありませんでした。子どもを守りたいと米沢に来たこと、それでも福島が好きだということ、その気持ちは変わりません。有難うございました。
●第一次産業を守ることが原発のない持続可能な社会を作ること
菅野 正寿さん(農業・二本松市)
原発から約50kmの二本松市東和町で、米、トマトなどの専業農家をしています菅野と言います。原発事故から1年、とりわけ自然の循環と生態系を守り健康な作物、健康な家畜を育んできた、何よりも子どもたちの命と健康のために取り組んできた有機農業者への打撃は深刻です。落ち葉は使えるのか。堆肥は使えるのか。米ぬかは、油かすは……。これら様々な資材をこれから検証しなければなりません。改めてこの福島の地域支援の大切さを感じています。
津波で家も農地も流された農家、自分の畑に行くことができず、避難を余儀なくされている苦渋。そして自ら命を絶った農民。私たちは耕したくても耕せない農民の分までこの苦しみと向き合い、耕して種を蒔き、農の営みを続けてきました。その農民的な技術の結果、放射能物質は予想以上に農産物への移行を低く抑えることができました。新潟大学の野中昌法教授を始め、日本有機農学会の検証により粘土質と腐植の有機的な土壌ほどセシウムが土中に固定化され、作物への移行が低減させることがわかってきました。つまり、有機農法により土作りが再生の光であることが見えてきました。
幸い福島県は、農業総合センターに有機農業推進室がある全国に誇れる有機農業県です。見えない放射能を測定して見える化させることにより、「ああ、これなら孫に食べさせられる」とどれだけ農民が安心したか。夏の野菜も秋の野菜も殆ど0~30ベクレル以下と、ただ残念なのは福島特産である梅、柿、ゆず、ベリー類は50~100ベクレル以上、キノコ類も菌糸が取り込み易く山の原木があと何年使えないのか、椎茸農家や果樹農家の中には経営転換を迫られる農家、離農する農家も出てきています。1月に農水省が発表した福島県内の玄米調査では、98.4%が50ベクレル以下です。500ベクレル以上出た僅か0.3%の玄米がセンセーショナルに報道されることにより、どれだけ農民を苦しめているか。私たちは夏の藁の問題、花火大会の中止、福島応援セールの中止、ガレキの問題など丸で福島県民が加害者の様な自治体の対応、マスコミの報道に怒りを持っています。マスコミが追及すべきは電力会社であり、原発を国策として推し進めてきた国ではないか。
私たち人間は、自然の中の一部です。太陽と土の恵みで作物が育つように、自然の摂理に真っ向から対立するのが原発です。農業と原発、人間と原発は共存できません。戦前東北の農民は、農民兵士として戦地で命を落とし、戦後、高度経済成長の下、高速道路に、新幹線に、ビルの工事に、私たちの親父たちは出稼ぎをして労働力を奪われ、過密化した都市に電力を送り、食糧も供給してきました。その東京は持続可能な社会と言えるでしょうか。福島の豊かな里山も綺麗な海も約3,500年続いてきた黄金色の稲作文化も正に林業家、漁業家、農民の血のにじむような営農の脈々と続いてきた結果なのです。つまり、第一次産業を守ることが原発のない持続可能な社会を作ることではないでしょうか。
私たちの親父やそのまた親父たちが、30年後、50年後のために山に木を植えてきたように、田畑を耕してきたように、私たちもまた次代のために、子どもたちのために、この福島で耕し続けていきたいと思うのです。そして子どもたちの学校給食に、私たちの野菜を届けたい、孫たちに食べさせたい。そのために、しっかり測定して、放射能ゼロを目指して耕していくことが、福島の私たち農民の復興であると思っています。生産者と消費者の分断するのではなく、都市も農村も、ともに力を合わせて農業を守り、再生可能なエネルギーを作り出して、雇用と地場産業を住民主体で作り出していこうではありませんか。原発を推進してきたアメリカの言いなり、大企業中心の日本のあり方を今変えなくていつ変えるんですか。今、転換せずしていつ転換するんですか。がんばろう日本ではなく、変えよう日本、今日をその転換点にしようではありませんか。
●もう一度あのおいしかった福島の魚を全国の皆さんに送り届けたい
佐藤 美絵さん(漁業・相馬市)
去年の3月11日、東北沿岸は巨大津波を受け、私たちの住む相馬市も甚大な被害を受けました。漁業、農業、観光業、全てを飲み込み、美しかった松川浦の風景が跡形もありません。私は港町で生まれ育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は、年間70億円の水揚げと、沿岸漁業では全国有数の規模を誇っていました。私はその日も明け方5時から市場で水揚げした魚を競りにかけ販売し、午後1時頃に自宅に戻り自営業の魚の加工販売の準備をしていました。そのとき、あの地震が起きたのです。
長い揺れが収まり、呆然と落ちてきた物を片付けていると、消防車が「津波がくるから避難してください」と海岸沿いを巡回していました。私は本当に津波なんかくるのか、半信半疑で道路から遠くを眺めると、真っ黒い波が動く山のように見えたのです。「だめだ、逃げろ」。息子は子どもを抱きかかえ、私は夫とともにやっと高台へ駆け上がりました。そこから見えた光景は丸で地獄のようでした。それから無我夢中で実家の両親や弟たちを捜したのです。その頃、弟は地震が起きた後、すぐに自分の船を守るために沖に出たのです。沖では仲間たちと励まし合いながら津波が落ち着くのを待ち、やっと帰ってこられたのは、確か3日後でした。
しかし、両親は逃げ遅れ、家ごと津波にのまれて帰らぬ人となりました。本当に残念でなりません。そして船を津波から守った漁師たちは、9月になれば何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つ一つ揃えがんばってきました。しかし、放射能がそれを許しません。毎週、魚のサンプリングをして「来月は大丈夫だろう。船を出せる」と期待しては、落胆の繰り返しでした。市場や港は変わり果てた姿のままです。元通りになるまでは、まだまだ時間がかかりますが、私たちは1日も早い漁業の復興を望んでいます。
現在、漁業者は海のガレキ清掃に出ています。しかし、夫たちはもう一度漁師として働きたい、私は市場で夫の獲ってきた魚を売る、活気ある仕事がしたいのです。そしてもう一度あのおいしかった福島の魚を全国の皆さんに送り届けたいのです。
●東京電力と国はきちんと責任を取ってほしい
菅野 哲さん(飯館村からの避難者)
飯舘村の菅野です。5月から福島に避難し、お世話になっています。飯舘村では高原野菜を作っていました。しかし今回の原発事故で全てを失ってしまいました。野菜を国民の皆さんに届けることができません。飯舘村の農家は殆どが農地も牛も全てを失って、涙を流して廃業しました。もう飯舘村で農業ができないのです。避難していても何もすることがないんです。農家は農業やることが仕事です。どうやって生きろと言うのですか。誰も教えてくれません。
事故から1年を過ぎますが、飯舘村は去年の3月15日の時点で44.7μsvです。この高い放射線量の中に飯舘村民は放って置かれたんです。その期間被曝させられたんです。誰の責任ですか。更には、放射能まみれの水道水まで飲まされていたのです。加えて学者は、国も行政も安全だと言っていました。どこに安全があるんでしょうか。その物差しがないんです。これをどうしてくれるんですか。答えがほしい。国民に国も学者も政治家全てが正しく教えるべきであり、正しく道を敷くべきであります。
死の灰を撒き散らして(東京電力は)「無主物」だと言います。何事ですか。火山灰ではないのです。原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。東京電力と国はきちんと責任を取ってください。今、大手ゼネコンが双葉地方、相馬地方に入っています。「除染、除染」と歌の文句のようです。何を言葉並べているのでしょう。
路頭に迷う住民の私たちの今後の暮らしついては、住民の意向を何一つ汲んでいません。今後の暮らしの希望の持てる施策がないんですよ。こんなことで許せますか。良いのですか。それはないでしょう。被害を受けた私たちは、悲惨な思いで生活をさせられております。まだまだ長生きできたはずの、村の高齢者が次から次へと他界していきます。家に帰れないで避難先で悲しくも旅立ちます。早く、早く、放射能の心配がなくて元のように美しい村になって安心して安全で暮らせることができる、そういう生活の場所と今までのようなコミュニティの形を作った、新しい避難村を私たちに建設してください。
美しかった飯舘村は放射能まみれです。そこには暮らせません。新しいところを求めなければならないんであります。国にも行政にも子どもの健康と、若者が未来に希望を持って暮らすことの出来る、そういう生活ができること。そのためには、住民の意向を充分に反映した新しい施策を要求します。皆さん、この悲惨な原発事故、この事故を2度と起こしてはなりません。この起きた事故の実態を風化させてはなりません。国民が忘れてはならないはずです。
福島県の皆さん、全国の皆さん、特に福島県の皆さん県民が一丸となってもっともっと声を大きくして全国に世界に訴えていきましょう。
●私は被災者になっていました
鈴木美穂さん(高校生・富岡町から転校)
私の地元は、郡山ですがサッカーがしたくて富岡高校に進学しました。寮生活をしながらサッカーに明け暮れ、仲間と切磋琢磨する充実した日々を送っていました。地震が起きたときは、体育の授業中でした。もの凄い揺れであのときは必死で守ってくれた先生がいなければ、私は落下してきたライトの下敷きになっていたと思います。校庭に避難しているとき、まさか津波がきているということ、そして原発が爆発するということは想像も出来ませんでした。私はこの震災が起きるまで原発のことを何も理解していませんでした。
翌日には、川内村まで避難しました。乗り込んだバスの中には小さな子どもを抱えた女性やお年寄りがいました。自衛隊や消防車が次々とすれ違っていく光景は、現実とは思えませんでした。避難所に着くと小さな黒い薬を配る人たちがいました。それはおそらく「安定ヨウ素剤」だと思います。配る様子がとても慌ただしく焦っているようで、私はやっと事態の深刻さが飲み込めました。
1号機が爆発し、川内村も危なくなり郡山に避難することになりました。私のことを郡山まで送ってくれた先生は泣いていました。先生には原発で働く知人がいたのです。原発事故を終わらせることができるのは、作業員の方だけだと思います。でもその作業員の方は、私の友人の両親であったり、誰かの大切な人であったりします。こうしている今も、危険な事故現場で働いている人がいます。そのことを考えると私は胸が痛みます。爆発から2ヵ月後、私は転校しました。たくさんの方々が優しく接してくれ、サッカー部にも入部し、すぐに学校にもなじむことが出来ました。でも私は被災者になっていました。
被災者ということで、様々なイベントにも招待されたりもしましたが、正直、こういう配慮や優しさは、返って自分が被災者であることを突きつけられるようで、それがいちばん辛いものでした。「がんばれ」という言葉も嫌いでした。時が経つにつれ、原発事故の人災とも言える側面が明らかになってきています。原発が無ければ、津波や倒壊の被害に遭っていた人たちを助けに行くことも出来ました。それを思うと怒り、そして悲しみで一杯です。人の命も守れないのに電力とか経済とか言っている場合ではないはずです。
3月11日の朝、私は寝坊して急いで学校に行ったのを覚えています。天気は晴れていて、またいつものような一日が始まろうとしていました。しかし、その日常に戻ることは出来ません。線量が高い郡山で生活し続けることに、不安を持っていますが、おじいちゃん、おばあちゃんを置いて移住することは出来ません。私は原発について何も知りませんでしたが、今ここに立っています。私たちの未来を一緒に考えていきましょう。
●もう少しの間、寄り添ってください。傷はあまりにも深いのです
橘 柳子さん(浪江町からの避難者)
浪江町は原発のない町、しかし原発が隣接する町です。私は、先の大戦から引き揚げてきて以来浪江町に在住していました。現在は本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9ヵ所の避難所を転々としました。あの原発事故のときの避難の様子は、100人いれば100人の、1,000人いれば1,000人の苦しみと悲しみの物語があります。語りたくとも語れない、泣きたくても涙が出ない、辛い思いをみんな抱えています。
津波で多くの方が亡くなった浪江町請戸というところは、原発から直線で6.7kmの距離です。でも事故の避難のために、その捜索も出来ずに消防団を始め、救助の人も町を去らなければならなかったのです。3月11日は津波による高台への避難指示、3月12日は「避難してください」のみの町内放送でした。「なぜ」が無かったのです。従ってほとんどの町民は「2、3日したら帰れるだろう」と思って、着の身着のまま避難しました。そこからそのまま長い避難生活になるとはどれほどの人が考えていたでしょうか。
もっとも、町長に対しても、国からも東電からも避難指示の連絡はなかったとのことです。町長はテレビでその指示を知ったと言っています。テレビに映ったのを見て初めて知ったということでした。なぜ、浪江にだけ連絡がなかったのでしょうか。原発を作らせなかったからでしょうか。疑問です。そんな中での避難は、また悲劇的です。114号線と言う道路を避難したのですが、そこは放射線が最も高いところばかりでした。朝日新聞「プロメテウスの罠」の通りです。
津島の避難所には3日間いました。テレビはずっと見ることが出来ました。15日に再度、東和の避難場所の変更。この日の夜まで、携帯電話は一切通じませんでしたから、誰とも連絡の取りようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。12日と14日の太陽の光が、チクチクと肌に刺すようだったのが忘れられません。12日の避難は、私にとって戦争を連想させました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で終結地に向かったあの記憶が蘇りました。原発事故の避難は、徒歩が車になっただけで、延々と続く車の列とその数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして私は怯えました。国策により2度も棄民にされてしまう恐怖です。
いつのときも、国策で苦しみ悲しむのは罪もない弱い民衆なのです。3・11からこの1年間、双葉郡の人々のみならず、福島県民を苦しめ続けている原発を、深く問い続けなければいけないと思います。脱原発、反原発の運動した人もしなかった人も、関心あった人もなかった人も、原発があった地域もなかった地域にも福島第一原発事故の被害は隈なくありました。そして復興と再生の中で差別と分断を感じるときがあります。それを見逃すことなく、注意していくことが、今後の課題ではないでしょうか。
福島は、東北はもっと声を出すべきだ、との意見があります。でも、全てに打ちひしがれ喪失感のみが心を打っているのです。声も出ないのです。展望の見えない中で、夢や希望の追及は、困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え脱原発、反原発の追及と実現を課題に生きていくことが唯一の希望かも知れません。先の戦争のとき、子どもたちが大人に「お父さん、お母さんは戦争に反対しなかったの」と問うたように「お父さん、お母さんは原発に反対しなかったの」と言うでしょう。地震国に54基もの原発を作ってしまった日本。そして事故により、日々放射能と向き合わざるを得ない子らの当然の質問だと思います。その子たちの未来の保証のために人類とは共存できない核を使う原発はもうたくさん、いらないとの思いを示すこと。いったん、事故が起きれば原子炉は暴走し続け、その放射能の被害の甚大さは福島原発事故で確認出来たはずです。この苦しみと悲しみを日本に限って言えば、他の県の人々には、特に子どもたちには体験させる必要はありません。
膨大な金と労力を原発のためだけでなく再生可能エネルギーの開発に援助に向けていくべきです。なぜ今、原発の稼働、このような大変なことに遭遇していても、未だ原発必要だという考えはどこから来るのでしょう。他の発想をすることが出来ないほど、原発との関わりが長く深かったということなのでしょうか。でも立ち止まって考えましょう。地震は止められないけど、原発は人の意思と行動で止められるはずです。私たちは、ただ静かに故郷で過ごしたかっただけです。
あの事故以来、われわれは何もないのです。長い間、慈しんできた地域の歴史も文化も、それまでのささやかな財産、われわれを守っていた優しい自然も少し不便でも良い。子どもやわれわれが放射能を気にせず生きることの出来る、自然を大事にした社会こそが望まれます。どうぞ全国の皆さん、脱原発、反原発に関心を持ちお心を寄せて下さい。そしてもう少しの間、寄り添ってください。傷はあまりにも深いのです。3・11福島県民大集会の私からの訴えと致します。ありがとうございました。