2012年4月アーカイブ
海上安全保障・経済分野のルールつくり促進、軽火器監視活動めぐる自衛隊と米軍の協力強化を柱とする共同声明「未来に向けた共通のビジョン」を発表
核燃料サイクルは「一炊の夢」
──いまこそ路線転換を!──
再処理は高コスト!
現在、国や電力会社が進める原発から出る使用済み核燃料を全て(全量)再処理をしてウランやプルトニウムを再利用しようとする「全量再処理路線」のコスト計算が、このほど明らかになりました。これは、「核燃料サイクル」のあり方を検討している原子力委員会が、今月19日に発表しました(4P参照)。それによると、全量再処理を行うことは、使用済み核燃料を直接処分するより遙かに費用が高く、その分の負担は私たちや私たちの子どもや孫が大きく負担することが明らかになりました。「全量再処理」は、これまで国が進めてきたプルトニウム利用路線の根幹をなすものであり、今回の試算の結果は、これまでの既定の路線の転換を促す結果です。政府や電力会社はこの試算を真摯に受け止めるべきです。
試算のベースには、事業そのものが本当にうまく行くことが前提となっています。全量再処理の前提には、高速増殖炉もんじゅの実用化などが前提となっていますが。実用化以前に、原型炉・もんじゅの段階で、トラブル続きで、昨年11月には政府の行政刷新会議の中でもんじゅの抜本的見直しが提言され、予算も削減され今年度の運転再開ができないことが明らかになっています。高速増殖炉開発はますます不透明感が強くなっています。
さらに、使用済み核燃料を再処理する国内の施設である六ヶ所再処理工場は、もともと全ての原発から出てくる使用済み核燃料を「全量」再処理することはムリであり、第二再処理工場をさらに建設しなければなりません。六ヶ所再処理工場は電力会社など民間主体で建設を進めていますが、第二再処理工場は民間が主体になることはないと言われています。政府も行財政改革を進める中で、新たに巨額の経費がかかる特殊法人を立ち上げることは不可能で、福島原発事故の収束に全力を上げるべき時にそのような余裕はないはずです。そもそも肝心の六ヶ所再処理工場が、高レベル放射性廃棄物ガラス固化施設の相次ぐトラブルで現在も停止中です。施設の竣工が今年10月と予定されていますが、それさえムリと言われています。19回目の竣工延期は明らかです。頼みの六ヶ所再処理工場の悲惨な現状を考えれば、とても試算通りに進むとは考えられません。
17基の原発でプルサーマル?
一方で、国が進める核燃料サイクル路線を維持するためには、国内の原発50基(4月19日/東電福島第一原発の4基廃止)の原発を30基に減らしても17基の原発でプルサーマルを行えば可能であると、原子力委員会の小委員会で発表しています。これも現実にどこまで可能でしょうか。福島原発事故でもプルトニウムの放出が問題となっており、実際の原発立地域でのプルサーマルの導入は、事故以前に比べそのハードルはさらに高くなっています。これも現実的ではありません。
青森県の抵抗が解決を遅らせる
全量再処理が幻であり、現実を直視し、全面的にプルトニウム利用路線の見直しをはかる必要があります。しかし、再処理を誘致した青森県が、ここへきて強固な抵抗を示しています。今月20日には「全量再処理を前提に、本県は国策に協力してきた。揺るぎないスタンスを堅持してほしい」(4月21日東奧日報)と青森県エネルギー総合対策局は現状の路線の維持を求めました。昨年12月、三村申吾青森県知事は、原子力委員会の新大綱策定会議で「使用済み燃料がそのまま放置されるのではないか。約束と違うことが起こってはいけない」とし、「再利用されない場合には発生元にお返しする」と主張しました。実際、六ヶ所再処理工場に保管されている使用済み核燃料を元の原発へ返した場合には、大半の原発で収容能力を超えるとの試算が原子力委員会でまとめられています。青森県を核のゴミ捨て場にしたくないということもあるでしょうが、県の財政に深く食い込んだ原発マネーを大きく失うことも懸念しているのでしょう。このことは、核燃料サイクル路線を転換すべき現状に対して、国や事業者に他の選択肢を国民的議論にさせない状況を招いています。地方の現実を踏まえ、現実的解決を示す強いリーダーシップと決断がいま求められています。
繁栄は一炊の夢
青森県も原発マネーや核燃マネーにどっぷり浸かり、もはやそこから抜け出すことができにくくなっています。そのことは他の原発現地でも同様で、例えば浜岡原発がある御前崎市では歳入の4割を原発マネーに依存しています。原発マネー依存体質がつくられ、そこから脱することができないものとなっています。青森県や六ヶ所村をはじめ原子力施設の立地自治体は、地方財政も疲弊しますますその依存度を高めようとしています。しかし、福島原発事故により、政策転換に対する危機感を露わにしています。
一方で原子力の村として名高い東海村の村上達也村長は「福島のような事故が起これば何もかも失ってしまう。原発による繁栄は一炊の夢に過ぎません。目を覚まして、持続可能な地域経済をつくるべきです」との発言をしています。核燃料サイクルという「一炊の夢」から私たちは早く目を覚ます時です。核燃料サイクに未来はありません!
米州首脳会議がコロンビア・カルタヘナで開催されるが、多くの国がキューバの米州会議復帰を求め、アルゼンチンもマルビナス諸島領有権を主張するなど、論議がまとまらず、共同宣言も発表されないまま終わる。
枝野幸男経産相が西川一誠福井県知事と時岡忍おおい町長とそれぞれ会談し、関西電力大飯原発3、4号機の再稼働に向け、協力を要請。西川知事は再稼働に関西圏の理解が必要と述べる
平和フォーラム・原水禁は4月6日、「放射線副読本」問題について、文部科学省に対する要請をおこないました。藤本泰成事務局長より要請文書(資料参照)を、文科省の高山宏・研究開発局原子力課立地地域対策室室長、立元長・同局開発企画課専門官に手渡したのち、若干の意見交換をおこないました。そのなかで担当官が明らかにした内容の要点は以下のとおりです。
4月7日、青森市・青い森公園で第27回「4.9 反核燃の日全国集会」(止めよう再処理!全国実行委員会主催)が開催され、青森県内をはじめ全国から約1150人が参加し、核燃料サイクル路線からの撤退と原発再稼動の阻止を訴えました。
4月8日、福島県いわき市で「NO NUKES! PEACE DEMO In Iwaki, FUKUSHIMA 3」(集会とパレード)が、平中央公園を会場に開催され、往復バスで東京から参加した人々も含む県内外から200人が参加しました。この集会は「放射能汚染のない未来と子どもたちの命を考えるパレード」と題して、開催は今回が3回目。集会は、「いわきアクション!ママの会」と「NO NUKES MORE HEARTS」(東京)の共催で企画され、ハイロアクション福島原発40年実行委員会から、大賀あや子さん、武藤類子さん、いわき市議会議員の佐藤和良さんらが発言しました。
パレード(デモ)では、「ドラム隊」の音が町に鳴り響き、沿道や歩道橋の上から、驚いたように手を振る市民の姿が目に映りました。
①前電源喪失時の事態悪化防止策②福島第1襲ったような地震・津波が来襲しても炉心や使用済み核燃料プールの冷却が継続すること③事業者が今後入り組むべき課題―ストレステストで一層の取り組みが求められた事業、福島第一原発事故の技術的知見の反映。
繰り返すな原発事故 止めよう志賀原発!
12.10 七尾市「さよなら志賀原発」集会、ほか
中国政府直属の中国社会科学院が、核兵器の「先制不使用」を含む自国の核政策の不透明性を指摘し、国際社会に対して透明性を高めるよう、政府に提言する報告書をまとめていたことが明らかに。
原子力安全委員会の原発安全審査に委員を出している原子力研究開発機構(茨城県東海村、鈴木篤之理事長)が電力11社、電気事業連合会から08年~11年に系二億五千万円余の寄付を受けていたことが明らかに。
穀物、魚、野菜など「一般食品」1kg当たり100ベクレル、粉ミルク、ベビーフードなどの「乳児用食品」と牛乳は50ベクレル、飲料水は10ベクレル。
●自分たちの好きな音楽でも運動に役立ちたい
日本音楽協議会(日音協) 事務局長 松本 敏之さんに聞く
●ガラス固化試験再開、そして中断 六ヶ所再処理工場でまたトラブル
原子力資料情報室 澤井 正子
●前原水禁議長・市川定夫さんを偲ぶ ムラサキツユクサを再び世界に
原水禁国民会議 専門委員 和田 長久
自分たちの好きな音楽でも運動に役立ちたい
日本音楽協議会(日音協) 事務局長 松本 敏之さんに聞く
【プロフィール】
1959年秋田県生まれ。82年に栃木県職員となる。栃木県職員労働組合員として活動。2005年に県職員を退職し、同年から自治労中央執行委員を務める。現在は、公務員制度改革対策室長。子どもの頃からピアノを習い、「気が付いたらピアノやギターを弾いていた」。ギター、キーボード、エレキベースの演奏をこなす。08年から日音協事務局長。
──まず日本音楽協議会の歴史から教えてください。
1950年代の「うたごえ運動」が始まりだと思います。このうたごえ運動は、労働組合に限らず、当時の若者たちにまで広がったということでした。私も詳しい話は知りませんが、原水禁運動の分裂などいろんなことがあって、「日本のうたごえ全国協議会」から分かれて、旧総評系の労働組合で1965年に結成されました。最初の会長は作曲家の芥川也寸志先生でした。
労働組合の集会では、当時は必ず歌が歌われていたと聞いています。三池闘争や安保闘争など、そういった時代の高揚などとも関連があると思います。初めはプロが歌をつくることが中心だったそうですが、それと同時に労働者が自分で歌をつくって、労働者のサークルで歌うということになったのでしょう。
──日音協では毎年「はたらくものの音楽祭」を開催していますね。
今年は6月9日~10日に栃木県小山市で開催します。オリジナル曲をつくって歌うサークルが多いですが、歴史ある労働組合の歌を歌われる方、プロの歌やテレビで流れる歌を歌うサークルもあります。毎年開催地を変えていますので、地元の労働者サークル、組合員を中心としたサークルなどは本当に様々です。
──福島でも原発問題とも関わっておられますね。
日音協福島県支部は、その前身として双葉地区音楽協議会というのがあったそうで、そこの反原発運動が母体となってつくられたと伺っています。しかし、ここ10年くらいはあまり元気な活動がなく、何とかしようよと言っていたところで、東日本大震災に見舞われました。中心になって活動していた人たちの中にも、今も20㎞圏内で家へ帰れない人がいます。昨年の7月31日に福島で開催された「原発のない福島を求める県民集会」では、まさに双葉で土地を追われた仲間のつくった構成詩を演じました。
反原発運動にこだわってきたのに、結局事故を防げなかったということで、一時は歌がつくれないということが言われました。でも、何か福島が発信しなくてはと、強引だったかもしれませんが、故郷に帰れないという内容の歌をつくって歌いました。原発に反対する歌はたくさんありますが、7月末当時の福島の方々の心情にいちばん合っていたのではないでしょうか。
──原水禁運動にも福島第一原発事故を「それ見たことか」とはすぐに言えない気持ちがあります。
やはり、3月11日という日が一人ひとりにとって何だったのか。震災であれ原発事故であれ、どういうふうに思って生活しているのか。私が言うのもおこがましいですが、一生懸命やってきたはずの反原発闘争の総括とでも言うのでしょうか。ある意味で、挫折もあるわけですよね。福島の方も「あなたの言ったとおりになりましたね」と言われるそうですが、それはうれしくないでしょう。言ったとおりにならないほうが良かったわけですから。すごい葛藤があって、それで歌はつくれないとずいぶん言われていました。
──やっぱり運動の中で歌が人の心を慰め、鼓舞する力はありますよね。
日音協でスローガンのように言われているのが、「生活、労働、闘いを歌う」。もう一つが、「つくり、うたい、ひろげ、つなぎあう」。最初は労働組合丸抱えで始まったのですが、その中でただ与えられて歌うのではなく、一人ひとりが主体的に自分の歌をつくって歌おうということです。平和とか原発も言葉としてはなくても、その思いは含まれていると思っています。働く者として労働組合との関係はすごく大事にするけれど、依存でもないし、指示、指令に従うことでもないということです。
──主体性を大切にすれば日音協全体が一つの方向性を醸し出していくということはあるのでしょうね。
日音協には政治方針のようなものはありません。原発についても反対だ、という方針がないのです。だから、「さようなら原発1000万人署名」も、どういうふうに声をかけようかということで議論がありました。でも、こんなに平和フォーラム・原水禁の集会で歌っているのに署名はやらないというのはおかしいでしょうという話になりました。とにかく事務局長である私が声をかけて、日音協の名前で提出しますというところまでは了解いただきました。
──松本さんと音楽の出会いを教えてください。
気が付いたらピアノやギターを弾いていました。大学の頃はブルーグラスをやっていました。マイナーな音楽です。担当はマンドリンでした。私以外の仲間でもそうですが、職場に入って労働組合運動に参加して、そうすると自分が好きな音楽で、大切だと思っている労働組合運動にも役に立ちたいという感覚ですね。
自治労の青年女性の交流集会で歌うとか、地方自治研究集会の開会集会で歌おうとか。ずっと青年部などばかりで、固定したバンドはなかったのですが、東京に出てくる少し前からトリオのロックンロールスタイルのバンドで、私はギターを弾きながら歌っています。
やっぱり好きではないと続きませんよね。2月11日のさようなら原発1000万人アクションの集会のとき、デモで歌っている私の映像を見た人から「松本さん、本当にうれしそうに歌っているね」と言われました(笑)。私は60年代~70年代の運動を経験していません。当時の名残で集会の中で歌うということをやってきましたが、今ではそれも少なくなりました。でも、大衆運動ですから音楽は大切だと思いますし、無くならないと思っています。外国の集会では労働者が歌ってばかりで日本人は驚きます。日本だって、もう一度そうなるのではないか。そのためにも明るく楽しく歌い続けていこうと思っています。
──日音協の今後の構想と平和フォーラム・原水禁にひとことお願いします。
2008年11月に、それまでの労働組合頼みから、会員がお金を出し合って運営する形で独立しました。とは言っても、援助はありますから縁が切れたわけではありませんが、最後の責任は一人ひとりの会員が持つというふうに切り替えました。ですから、前みたいにお金があっていろいろできる状態ではありません。
そうではあっても、年に一回の音楽祭や、毎月発行している機関紙、ブロック合宿と称した年一回の合宿は続けていきたいと思っています。あとは内輪だけではなく、駅前広場などに出て、いろんな人に聴いていただく活動をやっていくつもりです。音楽のグループはたくさんありますが、日音協の運動は労働組合に組織されていても、いなくても、働く者の運動なのだということを申し上げたいと思います。
平和フォーラムには歌う場をたくさんつくっていただきたいです(笑)。招かれなくても演奏することは大切ですが、同時に集会等には主催者があるのですから、主催者とちゃんと関係をつくることが大切だと思っています。私たちには先輩方の積み重ねとして、訴える力のある歌があると考えています。それは勝手な自負ですが、若い人たちとも一緒に力を付けていきたいですし、通りかかった人に立ち止まってもらえるような演奏をしていきたいと思っています。
〈インタビューを終えて〉
歌うことの苦手な私ですが、音楽が大好きです。音楽というものの「力」を信じます。高校時代にJAZZに出会い、それからずっとJAZZと向き合ってきました。故郷から切り離されて米国南部の綿花地帯で働かされてきた黒人労働者。その中から生まれた、ワークソングやゴスペル。JAZZの根幹をつくっている要素の一つです。働く者が生活の中から表現すること、自然と生まれてくる人の思いを大切にする社会であってほしい。日音協、がんばってください。(藤本 泰成)
ガラス固化試験再開、そして中断
六ヶ所再処理工場でまたトラブル
原子力資料情報室 澤井 正子
試験を中断して「異物」を回収
六ヶ所再処理工場のガラス固化製造試験は、2008年12月以降、約3年間中断したまま、2011年3月11日の東日本大震災を迎えました。工場は外部電源を喪失し、非常用発電機で使用済み燃料プールや高レベル廃液の冷却が行われ、2日後の13日に電源が復帰したのです。しかし、東北電力の供給力は以前のレベルに回復せず、大量の電気を使用するガラス固化体製造試験は想定外の「電力不足」のために遅れてもいました。
青森県知事と地元である六ヶ所村の「早期試験再開」という意向を受けて今年1月10日、ガラス固化体製造試験が再開されました。日本原燃は事故・トラブルが続発したA溶融炉ではなく、今回はB溶融炉を使用し、24日から非放射性の模擬ガラスビーズ1本分を炉内に投入し、ガラスを流下させました。しかし、流下速度が遅くなり、温度操作や直棒による撹はんが行われましたが回復しませんでした。日本原燃は試験を中断し溶融炉の熱を下げ、炉底部にある流下ノズル内の内容物を確認するため、ノズル底部から異物除去装置(ドリル)を挿入して「異物」を回収したのでした。
「本格稼働」延期はほぼ確実
日本原燃の分析結果によれば、クロムやアルミニウムなど、炉内でガラス溶液と接する部分にあるレンガの成分が確認されました。「炉のレンガのはく離片がノズルに流れ込みガラスの流下が低下」したと推定されています。レンガはく離の原因や破片の大きさ、数量等は不明ですが、炉内にまだ残っている可能性もあります。そのため原燃は今後、再度炉の熱上げを行い、すべてのガラス固化を抜き出す予定です。
レンガのはく離は、東海村にある実規模試験炉でも確認され、A溶融炉では2008年に天井部レンガが落下する事故が発生しています。原因は「急激な温度低下」とされているのですが、これを防ぐ具体的な対策はありません。B溶融炉は、「アクティブ試験の第4ステップ、第5ステップでA溶融炉系列が運転している間、並行して熱上げした状態で保持され、流下を行ったのは一度だけ」(日本原燃)だと言います。本来のガラス固化製造試験前の作動確認における今回の事故によって、ガラス固化体製造技術の問題点がさらに明らか になったと言えます。
今回の試験は、「事前確認」として5~6ヵ月かけて非放射性の模擬廃液でガラス固化20本を製造、後半の「安定運転」で高レベルの放射性廃液を使って、最大40本のガラス固化体を製造する計画でした。後半の期間は明示されていません。順調に進んでも、試験再開は4月以降になる模様で、今年10月の工場本格稼働の予定は、ほぼ確実に延期されるでしょう。
東京電力に迫られる「脱プルトニウム」
六ヶ所再処理工場を運転する、日本原燃の最大の株主である東京電力は、福島第一原発によって事実上の破産会社となり、今後も事故による膨大な賠償負担を背負っていかなければなりません。一方、再処理工場が本格稼働すれば、今後も相当な費用負担の増大は確実です。再処理事業を継続するような余裕は、もはや東電にはありません。福島県民の気持ちや国民感情から言っても「許されない」というのが現実です。東電は再処理に振り向ける資金があるなら、真摯に賠償問題と向き合うべきです。
さらに、東電が再処理から撤退しなければならない最大の理由は、もはやプルトニウムを必要としなくなった、という一言に尽きます。六ヶ所再処理工場の再処理契約(約32,000トン)の約6割が東電との契約です。しかし、福島の全10基の原子炉は事実上廃炉になります。使用しない原発に燃料は必要ないし、ましてMOX燃料(プルトニウム燃料)はなおさらです。
では、新潟の柏崎刈羽原発でMOX燃料を利用できるかと言えば、それもあり得ないと考えるのが妥当でしょう。2001年の刈羽村住民投票によって、いわゆる「プルサーマル」は拒否されています。福島第一原発事故を受けて、新潟県の泉田裕彦知事は、「福島第一原発事故の原因究明がなければ、柏崎刈羽の再稼働など議論しない」ことを明言しています。柏崎刈羽原発の再稼働さえ霧中の状態です。東電は、あらゆる意味で、「脱プルトニウム」を迫られているのです。
六ヶ所再処理工場計画は、1985年の地元受け入れから約30年、建設開始から約20年の歳月を費やしています。この間、原子力をめぐる状況は大きく変容し、核燃料サイクルを推進する根拠は、ことごとく霧散しました。福島第一原発事故を受けて、原子力委員会でも原子力政策大綱の議論が進められています。
核燃料サイクルの「要」と位置付けられていた高速増殖炉もんじゅ、 六ヶ所再処理工場とも技術的困難によって研究開発が進まないという現実を直視することが重要でしょう。
前原水禁議長・市川定夫さんを偲ぶ
ムラサキツユクサを再び世界に
原水禁国民会議 専門委員 和田 長久
前原水禁議長の市川定夫さんが、昨年9月に亡くなられて、間もなく半年になります。75歳でした。知られているようで知られていない市川さんとムラサキツユクサについて紹介し、追悼にしたいと思います。
運動に大きな勇気を与えたムラサキツユクサの話
市川さんは京都大学農学部で、特に放射線遺伝学を専攻され、1965年に米原子力委員会の管轄下にあるブルックヘブン国立研究所の研究員となります。当時は原子力の未来に希望が広がっている時代でした。しかし、研究所のスパロー博士らとともに「ムラサキツユクサ」を使った放射線の影響研究を進める中で、突然変異の出方が、これまで考えられていた放射線の「安全」とされていた基準値をはるかに超えて出てくることから、原子力開発に強く疑問を持ちます。
ムラサキツユクサには6本の雄蕊があり、雄蕊の軸に毛(雄蘂毛=ゆうずいもう)がたくさん生えています。この雄蕊毛の1本に20~35ほどの細胞が、数珠のように1列につながっています。実験では、青い色素をつくる優性遺伝子と、ピンク色の色素をつくる劣性遺伝子を一つずつ持っている株を使いますが、放射線を当てることによって、青い色素をつくる優性遺伝子に突然変異が起こると、いつもは隠されているピンクの花が雄蕊に出てきます(花弁にもピンクの斑点が出ます)。またムラサキツユクサの雄蕊毛は、基本的に1個の分裂細胞をもつ単一細胞であって、微量放射線の影響を調べる上で適した植物なのです。
ブルックヘブン研究所のムラサキツユクサでの研究で、0.7レム(7mSv)~0.25レム(2.5mSv)でも、突然変異が起こることが明らかとなります。市川さんはムラサキツユクサの研究を通して原子力開発反対の思いを強くして、73年に京都大学に戻ってきます。その頃は、日本で反原発運動が大きく盛り上がろうとしている頃でした。原水禁が69年11月に柏崎市で反原発全国活動者会議を開催する一方、大学の原子力研究者らも「全国原子力科学・技術者連合」(全原連)を組織します。両者は72年の敦賀での活動者会議で合流し、全国的に反原発運動を展開していくのですが、市川さんの帰国はこの時期と同じだったのです。
市川さんのムラサキツユクサの話は、運動に大きな勇気を与えただけでなく、原発周辺の住民の間で、ムラサキツユクサを植えて観察する運動へと発展していきます。最初は浜岡原発周辺で始まり、やがて島根、高浜、東海、大飯と広がり、毎日のつらく厳しい観察の結果、微量放射性物質による突然変異が確認されていきました。各地の観察は、ヨウ素131が生体内で2万倍にまで濃縮されることを示しました。
こうした動きに電力会社や原発推進派学者、科学技術庁(当時)が危機感を抱き、2回にわたってムラサキツユクサと放射線の関係を否定する討論会が、市川さんを排除して開催されました。1回目は市川さんが突然出席したため失敗しますが、2回目は市川さんが出席できず、ずさんな内容でムラサキツユクサと放射線の関係を否定することに成功しました。
その研究成果は世界に広がる
しかし、ムラサキツユクサ低線量放射線の話は世界に広がっていきます。ドイツ緑の党の創設者の一人、ペトラ・ケリーさんは、原水禁大会に参加した際、市川さんからムラサキツユクサの話を詳しく聞き、原発反対に一層強い確信を持って帰国しました。そして、76年のスウェーデン・イェーテボリの「反原発国際会議」、77年のオーストリア・ザルツブルグの「核のない未来のための国際会議」に市川さんの参加を求め、会議の前後にスウェーデン、フィンランド、スイス、フランス、ベルギー、ドイツ、オランダで、市川さんの講演会を設定します。
さらに78年には、原水禁世界大会に参加した人たちによって、全米各地とカナダでの講演旅行が実現しました。講演と同時に実験用のムラサキツユクサの株も世界に広がっていきました。79年に市川さんは埼玉大学に移り、以前ほど時間が取れなくなりましたが、原水禁大会には病に倒れるまで参加されていました。
市川さんが亡くなられ、私たちは改めてムラサキツユクサと微量放射線の関係を知った当時を思い起こします。私たちは再度、市川さんの研究とその思いを伝えていくことが必要だと考えます。
※写真は議長に就任し、本誌のインタビューに答える市川さん(2007年6月)
オバマの新国防戦略と中国
アジアの軍拡は何をもたらすか
新戦略は日本に大きな負担を強いる
オバマ米大統領は1月5日、国防予算を大幅に削減する「新国防戦略」(新戦略)を発表しました。それは陸軍や海兵隊を縮小する一方、中国の軍事力増強を脅威と捉え、アジア太平洋地域に重点をおいた配備を進めるとともに、日本などにこれまでよりも、より大きな負担を求めていく内容です。
米国は深刻な財政危機の中で、昨年春に今後10年間で総額4,900億ドルの軍事費を削減する方針を示しており、これに沿った戦略と言えます。しかし新戦略はイランの核兵器開発を阻止するとともに、イスラエルの安全保障と中東和平を支援する軍事プレゼンスを重視し続けるとも述べています。
それでも右派のシンクタンクは中東地域から手を引くことに危機感を募らせ、新戦略は「スーパーパワー・スーサイド(超大国の地位の自発的な放棄)」とまで語っています。私たちは流動的な状況にある中東であっても、2010年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で再確認された「中東非核化構想」だけが状況を切り開くと考えますが、イスラエルが反対のため、米欧も日本もこれに触れようとはしません。
中国に対する軍事的包囲網をつくる
米国の軍事力が世界最強であることに変わりはありません。ミサイル防衛や通常型即時地球打撃(CPGS)など宇宙戦力以外の実態を見てみましょう。米空軍はすでに、2009年8月に核爆弾搭載可能な重爆撃機部隊と大陸間弾道ミサイル(ICBM)部隊を統括する「グローバル・ストライク・コマンド」(AFGSSC)を編成しています。当時の保有重爆撃機数は、B-52Hが56機、B-2Aが20機でしたが(B-1Bは通常爆弾爆撃機)、米ロ間の新START条約によって機数は50機以内に削減されると言われています。しかしB-52Hは老朽化し、B-2Aは過剰装備や価格などで問題があるため、低価格で、さらに中国の接近拒否戦略※に対応する新機能の爆撃機開発が模索されています。
一方米海軍は、西太平洋配備の艦艇は50隻で、半数が日本とその近海に配備されています。また昨年オーストラリアに米海兵隊部隊が駐留することが確定し、シンガポールに新型艦艇「沿岸戦域戦闘艦」(LCS)の配備が決まり、韓国では米艦船寄港が可能な軍港が、済州島に建設されようとしています。こうして米国は中国に対する軍事的包囲網をつくりつつ、米韓合同軍事演習に見られるような着・上陸訓練を、米本土を含めて頻繁に行っています。これらの演習はイランや北朝鮮にも強いプレッシャーとなっていることは明らかです。
米中の狭間にあるアジア各国
こうした米国の中国を意識した新戦略は、中国に強い警戒感を与え、結果としてさらなる軍拡がアジアで進むことを意味します。
2月7日発表の英国・国際戦略研究所(IISS)の「ミリタリーバランス」は、アジアの軍事費が欧州を初めて上回るとの見方を示し、中国だけでなくアジア全体で軍事費が増加していると述べています。3月の全国人民代表大会では前年比11.5%増の7,018億元=1,114億ドルと発表されています。南シナ海では現在、中国とベトナム、フィリピン、台湾、ブルネイが南沙(スプラトリー)諸島の領有権問題で対立関係にあり、インドも領有権で対立し、ベトナムは西沙(パラセル)諸島についても中国と領有権を争っています。
米国はこうしたアジア各国との対立を好機と捉えて、軍事的支援を積極的に行おうとしていますし、一方、中国も、対話で解決をと訴えつつ、領有権問題では一歩も引かない姿勢を示しています。こうした対立構造の中で、中国は初の空母(旧ソ連の空母「ワリャーク」を改造)を昨年夏から試験航行させ、いよいよ年内就役を明らかにしました。さらに昨年1月に試験飛行を行った中国のステルス戦闘機「J-20(殲-20)」の行動範囲は、現在のJH-7(殲轟7)戦闘爆撃機より広いことが明らかとなり、領有権問題を抱える国々を悩ませています。
アジア各国は軍事拡大を図る一方で、経済的には中国に依存しなければならず、こうした状況の中で米国が新戦略を打ち出したのですから、各国の関係は複雑化していきます。インドネシアの政府高官は米国に対し、「見捨てないで欲しい。だが、われわれに(中国と米国のどちらかを選ぶような)選択を強要しないで欲しい」(「フォーリン・アフェアーズ」2012年3月号、ヘンリー・キッシンジャー「アジアにおけるアメリカと中国」)と語っていますが、新戦略で強い関与を求められている日本は、このような悩みとは無縁のようです。新戦略については、今後とも検証していきます。
※接近拒否戦略 遠方から来る敵を防衛戦内に入れさせず(接近拒否)、防衛戦を突破されてもその内側で敵に自由な行動を許さない(領域拒否)という概念の戦略。